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駄文#17 老いて嬉し

こんにちは、抽斗の釘です。

先日、親戚から

「30代になってしまった」

との連絡がありました。

惜し気な文面に、「30代は良いぞ」と、何気なく返信しましたが、はて、何が良いのやら。

学生の頃に得た交友は、今になれば徐々に薄れ、
付き合いが続くものも、年賀状や時節の折に簡単な連絡を取るだけになりました。
コロナ禍になってそれは余計に。
それまで慣習のようにしていた飲み会やお茶なども互いに遠慮してめっきり減ってしまいました。
しかしそれは、何も疫病のせいばかりではないように思います。

10代20代では、他人の事ばかりが気になって、あっちに行ったりこっちに来たり。
交流することが、生きる上で人生に彩りを持たせる、重要な要素になっている。
そう思っていましたし、振り返ればあの頃は賑やかだった印象です。
「わたしはどんなもの」という疑問を、他者と会話し、同じところ、違うところといったように、自分を確かめていたのかもしれません。
また、その作業は楽しいものであったように思います。

が、30代になったころから、周囲の友人もそうですが、徐々に、自分のごく周囲のこと、で、忙しくなるのです。
それは家庭の変化もあるでしょう。また、職場では責任ある立場に就くからかもしれません。

ともかく歳をとれば、それまで大きく広がっていた世間が、ずいずいと閉鎖的になっていく。
普段の会話も、家族やもしくは外での事務的なものばかり。
他者を知って広がるよりも、自分自身のほんの周囲にどうしても気が向く。
また、そのほんの小さな範囲の維持に、力を尽くすばかりで。
ふと、このまま閉じ切ってしまうのではと、不安になったりもします。

図書館で本棚を眺めていると、ある本に目がとまりました。

『はじめの穴 終わりの口』井坂洋子(2010年 幻戯書房)


装丁は暗めな色彩、可愛らしいドクダミの花。蟹の鋏……?
恥ずかしながらそれまで存じ上げていなかったのですが、
井坂洋子氏、詩人の方の、自叙伝的なエッセイのようでした。
何げなく、借りることにしました。

現時点でまだ3、4編しか拝読していませんが、私の朝の楽しみとなりました。
各編の冒頭には古今東西の詩を載せ、文章はそれからご自身の記憶や感情の片鱗へと移っていきます。
その文章のみずみずしさ。かわいらしさ。明哲さ。そして容易に場面が浮かぶ表現の鮮やかさ。

お若くして聡明な方なのかしら、と、歯ぎしりしながら調べてみると、
1949年のお生まれとあります。
この本が刊行されたのが61歳のお歳。

60代70代は私の親の世代となりますが、
彼らを想像すると、どうしてもこのような文章を書く姿が想像できません。
年齢とともに、外見のように誰しもがあちらこちらの潤いをなくしていき、淡く乾燥へと落ち着いていく。
歳をとるとは、そのようなものだと思っていました。
書くものも、同じように歳をとるのだと。
例えばご高齢の方が書くものは、時折小難しくなったり説教じみることもあったり。(人のことを言えませんが)
新聞の投稿欄などを見ていると、年齢とともに書かれているものからそういったことをなんとなく感じたり。

いや、しかしこの文章は年齢に関係なくみずみずしい。と、感服せずにいられませんでした。

まだ本の前半ですが、
どの編も、著者から去った人、失われた人の影がちらつきます。
物悲しくもありますが、しかし決して寒々しくない。
それは体温のようにぬくもりすら持ち、失われたことが潤いでもあるように思わせます。
文章、記憶、表現。
美しい、と言えば簡単なのですが、
私は何も言えず、腹を出して寝転がる犬のきもちです。

感性は老いないということでしょうか。いや、老いることはよいことでしょう。
つまり感性が、歳を重ねても乾かない。
といったところでしょうか。
どれだけ言葉や感性を磨けば、この境地に至れるのでしょうか。

生きていれば、中盤から後半に進むほど、失うばかりだと思っておりました。
しかしこの方のような感性を持ち得れば、
失うことすら、人生の実り、喜びのようにも思える気がしてなりません。

「80代は良いぞ」と、この先も言えるような潤いを。

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