短編小説 | 水鳥 #3
その日は気が散ってうまく撮影にならなかった。そんな焦りを察してか、鳥も思うように近づいてこない。ただファインダーを覗いて、それだけの時間が続いた。会話はなく、何を話していいかも分からない。
青く光る鳥が何という鳥であるのか。エイジはろくに調べなかった。それが想像の鳥であると分かっていたし、しかし想像だとしても鳥であるから、描くためには鳥というものの息遣い、動き、形を肌で、その目で捉える必要があった。いろいろな鳥を知って、それらを組み合わせる気でいた。それにもしあの水鳥を描く運命であるなら、あの鳥が、もしくは近い鳥が、光らないにせよ、いつか目の前に舞い降りて来るはずだった。
そんな子供じみた期待があったが、しかしまったく当てもなく来ているわけでもない。想像の鳥はカワウやサギに近い、サンマのような細長の顔をしているのを覚えていた。それは水鳥の特徴だろう。何よりあれは水上に現れた。ならばこの近くで、近種のコロニーを形成している可能性があった。その中に、あの鳥がいるかもしれない。鳥はきまぐれで、いつ目の前に現れるか分からない。その瞬間は逃せない。が、予期せぬ同伴者の出現に、エイジの集中は削がれた。鳥よりむしろ隣に気が向く。
その子の格好は、ブルゾンジャケットに黒のスキニーデニムを履いて、ロングブーツだった。そして黒のインカ帽を被っている。髪がその下から頬骨に掛かるほどあって、目のあたりを隠し、性別はどちらともつかなかった。歳は、見たところ中学生ぐらいだろうか。その日、その子は二時間近く横に座り続け、居心地の悪さに耐え兼ねたエイジが帰り支度を始めると、同じようにベンチから立ち上がって、何も言わずどこかへ行ってしまった。
次の日曜も、その子はどこからともなく現れると、また同じように隣に立った。何も言わず目で会釈すると、微笑みで俯き、横に座った。会話もなく、どぎまぎしていると、
「ねえ、名前なんていうんですか」
と、その子の方から聞いてきた。エイジとだけ名乗る。その子はイズミとだけ名乗った。
それからまた無言の時間が続いた。いくつ。どこの学校。部活は。何しにここへ。家族は、趣味は。それ、どこの服。探せば話題などいくらでも出てきそうだが、エイジは何も聞かなかった。それは、向こうが何も話してこないことからもあれば、ただ何も聞かないのが、この場の礼儀のようにも思えたためだった。もともと野鳥観察は静かな活動である。無闇に話していては周囲にひんしゅくを買うし、何より話声で鳥が逃げてしまっては目的違いになる。それをイズミも理解しているのか、ただ静かに横に座って、池を眺めているだけだった。
ここにいて楽しいか。友達は。お昼はもう食べたの。飽きてない? 他へ行きなよ。……どうしたの。
シャッターを押し終える度、エイジはそんなことを聞こうかとも思った。しかしイズミがその場に居続けることで答えは分かっていた。だからエイジは会話の必要がないことを、三度目の撮影でやっと悟った。
北風が冷たくなりはじめたころから、徐々にイズミの服装も変化していった。秋の装いから、フィールドワークの格好へ。四度目の撮影日に髪をバッサリと切り、ハンチングを被ってきたのは驚いた。が、イズミなりの配慮というか、ドレスコードのつもりだろうと、指摘せず、そっとしておいた。
五度目にはカメラを携えて来た。さすがに望遠レンズは用意できなかったようで、簡易的な、白いコンパクト一眼だった。撮り方を教えてやろうかとも思ったが、やはり自分もまだ日が浅い。止めておこうと思った。困った様子を見せたなら、その時は教えてやろうと思った。
しかし六度目以降、イズミはカメラを設置しても、シャッターを押すどころか、ファインダーを覗く気配もなかった。そのくせこの場に慣れたのか、「今の撮れたの」だとか、「うまくいったの」だとか、時々エイジの撮影に口を挟むようになった。その度に、ああだとか、うんだとかの返事を、エイジの方も返すことができるようになった。それは彼にとって、ささやかな、喜ばしい会話だった。
「(イズミも)撮りなよ。」
そう、エイジの方から聞いたのも、このお互いの慣れのためで、そして、ああ、イズミは必ずしも撮るためにここにいるわけではないと、思い直せたのもそのためだった。
撮らなくても、この場にいるだけでも、他人には意味があるのかもしれない。そう、思い直した。しかし同時に疑問が生まれる。
ならばなぜここにいるのだろう。カメラまで持参して。それでも撮らず、この場にいる意味とは何だろう。しかし聞けば、近寄れば、警戒されて逃げられるかもしれない。それでもその疑問は今のエイジにとって、聞かないがために、より強くなっていった。やがて自分にとってそれは重要なもののように思われた。なぜ、この子はカメラを前にしても、撮らないということができるのだろうか。幼い子供だってカメラを与えられたら何も言わないうちに撮り始めるだろう。それほど、何かを創り手に入れるということは、エイジにとって人間の持ち得る欲求のようにも思えていたのだ。
「そう、(いえばさ)」
エイジはカメラの露光ツマミを触り、調整するふりをしながら、イズミに話しかけた。唇が、寒さで震える。イズミがこちらを見る、羽毛が詰まったナイロンの擦れる音が聞こえた。
「撮らないの。その、(カメラを持ってきているのに)」
「なんで?」
「……なんで? (なんでって、せっかくカメラを持って来ているんだから。撮らないと意味がないというか)」
「ふふ」
イズミの含み笑いが聞こえた。そして、
「撮るために持ってきてない」
と、続けた。が、よく分からなかった。しかし聞き返すのも無知なようで、ふうんと、分かったふりにとどめて会話を絶った。それでもイズミは、
「じゃあ、エイジはなんで写真を撮っているの。」
と、切り返して来る。
「……、僕は絵を(描いている。次に描くのは水鳥の絵にしようと思って)、その、資料のために」
「そうなんだ。でもあんまり撮らないね。ぱっぱと撮ってさ、ささっと描けばいいのに。」
その言いようがあまりに軽々しく、エイジは少し、寂しくなった。
「……目的の鳥(がいて。それをどうしても撮りたくて。ここに現れるの)を、待ってる」
「それ、どんな鳥? ぼくも探そうか」
撮りたいのは青く光る鳥。しかしそうは言えなかった。だから似た鳥でいい。だがそれがどのような鳥なのか。想像を言葉にして伝えるのは難しかった。
「……うん。」
「でもさ、見つかんなくたって、なんとなく、想像で描いちゃえばいいんじゃない?」
エイジは口噤む。そして会話が途切れた。聞く気がないなら、なおさら伝えようもない。それに、創作に理解のない者に協力など仰ぎたくない。エイジは沈黙のまま考えた。
「……。(想像は誰でもできる。なんなら、いつも、みんなやってる。じゃあ想像を形作ることが創作というものなら、僕は僕だけのものを表現しなくちゃいけない。みんなと同じようなものや、既存の創作物の転写だけじゃ、僕が作る意味はない。僕が生きている意味はない。僕は特別がいい。僕は芸術がいい。僕は僕だけの存在でいたい。特別な、重要な存在として世間に認知されたい。模倣や人の欲求に応えたところで、そこにいるのは自分なんかじゃない。僕は自分を、芸術を示したいんだ)」
「ふうん」
イズミが、唐突に頷いた。
「つまり、あなたは見るものがないと描けないってこと」
次いで出た言葉はどこか挑発的なように聞こえた。
「……。そんなこと(も分からないのか。子供の落書きじゃないんだ。創作もリアリティが必要なんだ。リアリティとイメージが交錯して作品が出来上がる。それが分からないなら、お前が口を出す資格なんて)、ないよ」
そんなことないよの、続きを待っているのか、イズミの返事はすぐになかった。が、ひゅうと湖風が吹いて、鳥は鳴かず、梢が揺れて、そのなかで、静かに口があいた。(続)
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