短編小説 | 水鳥 #1
夕暮れの鉄橋を電車が走り抜けていく。
落陽は西空から車両の脇腹を照らし、銀の車体や薄緑の橋の支柱、そして河川の水面なども所々白く瞬いていた。
その斜光は車窓からも入り、乗客の顔や胸を一様に杏色へと変えていた。ただ、年末のことであるから車内の様子は普段と異なり、学生などのにぎやかな声はない。座席に沈む人々は木々に休む鳥のように皆並んでくつろぎ、たそがれの安らかなひと時を思い思いに過ごしている。
コートの毛くずをひろう人、マフラーを口元に上げる人、髪先のほつれを直す人。歳、恰好もまばらである彼らだが、年末の休みに出かけねばならない用事があったことだけは全員に共通していた。百貨店の紙袋を抱える婦人。野球帽を目深く被る老君。パソコンを膝に景色を眺めるスーツの男。コートのポケットに両手を温め眠る青年。ひび割れた指先を見つめる防寒ジャケットの男。ただ小さく膝を揃えて目を瞑る老女。桃色のキャリーバッグを足で支える女。皆、ようやく各々の用事を終え、ひとまずそれぞれの駅に着くまでやることはない。安堵しゆらりとしている。車内は程よく空き、乗客は皆座ることができていた。誰も話さない。
もし、このまま静かに橋が溶け、川中へ車両が滑り落ちたとしても、乗客は誰一人気が付かず、成り行きにまかせるかもしれない。それほどに穏やかな、誰も彼もひとりの車内であった。
その中に、唯一連れ合いの、一組の若者たちがいた。彼らも他と同様に肩を並べ、ロングシートの真ん中で身を寄せうつらうつらとしている。なぜ彼らが二人組であると分かるのか。それは二人とも、同じような格好をしているからであった。
ひとりは痩身長躯で、もうひとりは二回りほど小柄。長躯の方はうっとりとしながらも首を伸ばしたまま、目を開け窓の外を見るともなく眺めている。小柄な方は隣の長躯に成り行きを任せているようで、くったりと、額を下げ電車の揺れるまま頭を上下にしている。
その、小柄の方は、遠目には少女のようにも少年のようにも見えた。髪は耳までで切られて短く、伏せるまつ毛は豊富で長い。何よりネルシャツの襟から伸びる艶のある白いもちのような肌が、首から頬にかけて夕日を反射して光り、その眩しさが妖艶な肉感を含んでいた。しかし一般的な美形の類でなく、それはつまり幼さゆえの中性さであった。悪く言えば野暮ったい。それが女にせよ男にせよ、締まりのないもち肌がともかく子供じみていた。それも決して聡明ではない、裕福な家の子のような、そんな緩慢さがあった。
一方長躯の方は浅黒く、そして彼の瞳には光がなかった。上瞼が眼球の中部にほど近くあるせいか、常時でも瞳が半分ほど隠れて冷徹に見える。また、眠たそうにも見える。彼は象牙色のハンチング帽を被っていた。小柄な方も、アースグリーンの毛糸調のハンチング帽を被っている。上着は二人とも帽子と同色のダウンジャケット。そしてジーンズ、スニーカー。もし意図的に服装を合わせているとするならば、彼らは一見して仲の良い兄弟にも見えた。また、同等に恋人同士のようにも見えた。しかし女であるのか男であるのか、それとも兄弟であるのか恋人であるのか。そんなことをたとえ考えたとしても、周囲の目はすぐにどちらでも。と、目を瞑り、再び斜陽のゆりかごへ眠りに帰るだろう。それほど微かに特異な、されど物静かな二人を乗せて、電車は鉄橋を越え、河川敷へと滑っていった。
河川敷の向こうには、空中にうねり回転する高速道路のインターチェンジが、まるで遊園地の遊具のように、西日の影を纏って佇んでいた。
狭くなった視野はそれだけ対象に近付いている実感を伴う。
エイジはファインダーを覗くときに度々そんなことを思った。
実際それは本当だった。覗きガラスの中に映る水鳥は、現実には届かない距離の大きさで片目に現れている。片方の眼球だけが水上を浮遊し、水鳥に接近しているように。
しかし鳥の姿を写そうとする瞬間は、そのような雑念も消え、ただ単に手に入れたいという欲動のみの反射だった。彼の柔和な指は、シャッターの上で滑らかに下りる。鋏のような音がする。
その音は、遠くの水鳥には聞こえるはずもない。が、その瞬間を察知し遊ぶように、水鳥はほんの寸前に飛び立ってしまっていた。
「今の、いけた?」
隣から声がかかった。エイジはファインダーから片目を離した。
「……だめ」
「だめね」
横を向けば、イズミの大きな顔があってどきりとした。和菓子のようにつややかな唇が紅く、日光に透かされた瞳は緑に近く澄んでいる。それらが彩色の少ない冬の水場にじんと映える。と、イズミの目がこちらに向けられ、そしてにこりと細まった。
「残念だね」
と、言われ、エイジはふいと、目をカメラへ戻した。
「どうせ。(バンだよ)」
「でも狙ったんでしょ。」
「(他に、)いないから」
昼間の池は水草の色をしている。それが周囲の木々の色と相まって、増して神経を緩慢にさせた。
目ぼしい鳥は中々来ないものだった。カイツブリ、アオサギ、バン、オオバン、カルガモ、マガモ、カワウ。現れる水鳥はそのようなものだが、エイジが狙う鳥は他にいた。そしてそれがどの鳥だとしても、レンズの範囲に収まるかは彼らのきまぐれだった。
「うまくいかないね」
イズミは膝の上の草埃を払うように手を動かして微笑んだ。
横に並んだ二人の前には、それぞれの三脚に乗った、それぞれのカメラが置かれている。エイジはイズミのコンパクト一眼を顎でさした。
「(イズミも)撮りなよ。」
「なんで?」
「……なんで?」
写真を撮りに来ているのだから。そう続けたかったが、しかしこいつは必ずしもそうではないと思い直した。口を噤む。遠くでジョウビタキの錆びた自転車のような地鳴きがひとつ、周囲に響いた。(続)
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