短編小説 | 水鳥 #4
「はたしてぼくらは、見られていないと存在しないの。」
その声が小さく通り、エイジはさっと隣を見た。イズミのハンチング帽にだけ、光の境目、その線が降りている。羽冠のように。
「えっ」
「あなたが見ていないものは、視線を外せば靄のように消えてなくなってしまうの。じゃああなたは、誰かに見られていないと消えてしまうの。」
何かの詩かとも思った。それほど流暢に聞こえた。エイジは陰るままのイズミの横顔を見つめ続け、少し、息を吸った。
「……。(僕らは誰かに見られていないと消えるわけではない。でも)僕が見たものは、(形に残さないとすぐに時間の流れに飲まれて消えてしまう。それは僕の想像も同じだ。想像も現実もすぐに消えてしまう。僕は常にその消えてしまう瞬間を)形にして残したい」
イズミはまっすぐ池を臨み、芝居のように声を張った。
「あなたが芸術だと切りとろうとする世界は、切りとられなかったってきれいだ」
そして立ち上がった。光の中に全身が入って、まるで舞台のようだった。池からの風が緩やかに吹き続ける。
エイジはその冷気も忘れ、胸の高揚を感じていた。
「……でも、(ふたつとして同じ場所に同じ時間は訪れないから。切り取られなかったらそれはすぐ消滅してしまう。なかったものになる。見られなかったらものは消えて死んでしまう。僕はそれを永遠に残す存在になる。僕が見たものはつまり僕の目によるものだから、形に残したものが僕になる。僕は絵を描くことで僕の目を、自分自身を作りだしているんだ)だから、(僕らは永遠に生きるために、瞬間を永遠の形に)残すんだ。」
「それは、残念だけどあなたではないよ。」
イズミはぴしゃりと言いのけた。見上げた顔は、微笑みを持ってこちらに向けられていた。
「残るのは絵具やインク、もしくは発光の、それらのただの並びだけだ。」
「でも、(それでどう形作るかが芸術家の腕じゃないか)」
「それはあなたではない。それはただのあなたの周りだ」
「それだって、(ひとつの表現方法だ。浮彫、レリーフ……、どんな形であれ、なんと言われても、僕が永遠に残るならそれで)いい」
「あるのはレンズだけ、あなただけ。そして自然が、世界が美しいだけ。あなたは芸術なんかじゃない。鳥を撮ったって、鳥にはなれない」
「何も(しない奴に言われたくない。僕は鳥になりたいわけじゃない。撮りたいだけ、描きたいだけだ。芸術なんか)知らないくせに」
「知ってる。」
イズミはこともなげに言い捨てた。
「ぼくが芸術。ほら、分かるでしょ?」
イズミは両手を広げ、体を開く形をとった。その胸に、いっぱいの光が集まって見えた。それがあまりに喜ばしく、またくだらなくなって、エイジは思わず笑ってしまった。イズミはエイジの破顔を受けると、また煽るようにして微笑んだ。そして置かれたままの三脚と、自身とを交互に示した。
「おかしくない? ここにいるのに。自己表現、だなんて。……自己アンチ。」
自己アンチという言葉の、意味がよく分からなかったが、ただそれは幼い揶揄のように聞こえた。意味などとうに失われてしまった、子供たちだけに交わされる忌み文句のような響きだった。幼くて馬鹿らしい。イズミははなから実のある議論などしていないのだ。そう分かると、もう何も、言い返す気になれない。が、イズミは続けた。
「ぼくならシンパシー。なぜならぼくが芸術だから」
シンパシー? 何が、何に。しかしそう笑い揺れるイズミの様子は、自然と同調し、楽々と生き舞うように映った。
「あんたが芸術? バカ言うな」
緩んだエイジの表情が、しかし芸術と聞いて微かにだけ精悍に締まった。
「ほんとだよ。撮らないし、描かないから、まだ、この中はきれいだよ」
イズミはそう言って、胸のあたりを手で押さえた。そして風に愉楽するように、天を仰いで首を伸ばした。その筋がいっそう光る。加えて「きれい」という言葉の響きがエイジの好奇心をがりと掴んだ。吸い付くように、その首筋から目が離せない。
「(……どうせ頭の悪い子供の遊びだ。からかおうと思うなよ。それなら)じゃあ、描かせてみろよ。」
エイジの上瞼の中が、ぐっと、暗く光った。
「描かないで。でも、見るだけなら。すみずみまで、」
と、イズミは陽向の中で嫣然と微笑んだ。
さすがに外では脱げないとイズミは笑った。
調べると、周囲のオフィス街は存外、個室を借りられるような施設や場所はなかった。カラオケやネットカフェのある繁華街は、もっと都市の中心部にあるのかもしれない。そのため少しそこから離れる必要があった。高速道路のインターチェンジ付近に、小さなホテル街がある。そこなら脱げるだろう。電車で数駅移動し、少し歩けば辿りつけそうだった。エイジのスマートフォンを持つ手が、震えながらそう決断した。
「本当に。本当なんだな」
エイジは二度三度イズミに確認した。何の確認か分からないが、確認の必要があるように思った。イズミはその度に、神妙に頷くだけだった。
そうして二人は電車に乗った。幸い年末の休みの時期で、知り合いもいそうにない。悠々と座ることもできた。
隣では早々に、イズミが眠り始めた。
エイジも誘われるようにうとうととした。いつしか、切れ切れのまどろみに電車が鉄橋から滑り落ちる薄い夢を見た。はっと意識が戻る。
あと一駅だった。それは眠気と、落ち着かない期待や興奮の混じる不快な瞬間だった。そして微かな期待があった。今見た夢で、電車が鉄橋から落ちる瞬間、イズミは鳥の姿となって、河川の彼方、落陽の方角へ輝きながら消えていったのだ。そうなのか。そうだったのか。……そうであってほしい。
しかし隣には、未だにイズミが眠っていた。エイジは横目にイズミの首筋を盗み見た。そして間もなくそれが手に入る、その欲動が、恐れが、エイジの心を泥底のように絡め、沈めていた。
報われないことの連続が生きるということなのかもしれない。
エイジは冷静を求め、漫然とそんなことを考えた。
ぼくらは基本的にうまくいかない。うまくいったとすれば、それはたまたまだ。
芸術なんてのも、そのように思える。たまたま視界に鳥が下りてきて、たまたまそれを撮ることができる。そのためには、やはりカメラを構え続けなければいけない。そして運よく手に入れられた時、僕らは。
カメラと思い、エイジはイズミの鞄を見下ろした。
そういえばなぜ、こいつは撮らないのにカメラを持ってきているのだろうか。
「ドレスコード?」
の、一部だろうか。首をひねると天井の中吊り広告に、ペンギンの写真が見えた。水族館の案内である。以前、テレビかネットのニュースで見たことがあった。水族館のペンギンの餌を狙って、水場に舞い降りる、彼らに紛れる水鳥。なんといったか。サギか。いや、確か、もう少し。
そこへ、斜光がきらりと影を切って、エイジの目を差した。目がくらむ。ああ、暮れるのだ。
じきに夜がくる。があ、と、隣でひとついびきが上がった。 (了)
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