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◆花の葬列、喪失の棘

 ひとは、死ぬと花びらにかわる。
 冥府の女神の眷属たる精霊がひとたび祈りの詩を紡ぎだせば、弔いの鐘の音が天より響き、死を迎えたその身は勿忘の花に変わり、散っていく。

『いかないで』『そばにいて』『まだ行くな』『まだ早い』『まだここに』

 どれほど大切な存在であっても、どれほど望んだとしても、この喪失を拒むことは赦されない。
 けれど。
『たとえ、死がふたりをわかつとも』
 あるひとりの男の狂気が、精霊が紡ぐ祈りの歌を理もろともに引き裂いた。


 *

 町の入り口で、僕は教会のエンブレムを掲げた馬車の速度をゆっくりと落としていく。


「エリナさん、どうやらここが“精霊の消えた町”のようですよ」


 葬儀屋として正しく喪に服した礼服をまとった僕は、教会からの依頼書を反芻しつつ、御者台から馬車の中へと声をかけた。


「とってもきれいな町ね」


 窓に手をかけて顔を覗かせたのは、喪服と称するには装飾過多な黒ドレスの女性だ。
 小鳥のように愛らしく、仔猫のように油断できない僕の師匠は、大きな瞳を好奇心に輝かせる。


「まるで月長石で作られたテラリウムみたい」
「まあ、たしかに」


 白く艶のある街並みは、水晶硝子に閉じ込めた鉱石の箱庭を思わせる。


「とても、不穏な噂が立っている場所とは思えませんよね」


 僕らがここへ来たのは、この町に流れる噂の真偽を確かめるためだ。
 冥府の精霊が消え、死者がそのまま現世に留まり続けているらしいという、不穏で不可解であってはならない出来事が囁かれる町。


「人手不足だっていうのに、噂だけでこんなところまでよこすのね」
「噂の段階で確認を怠る方が、あとが怖いじゃないですか」


 本来、ひとは死ぬと花びらに変わる。
 精霊の手により、多くは勿忘の花びらとなって、惜しまれながら消えていく。
 死からふたつ目の夜を超えてなお、その身を掻き抱くことはできない。
 だからこそ僕ら葬儀屋は、残された人々のために、故人が生前愛した花を棺に敷いて別れの儀式を執り行うのだ。
 花葬により、人は愛するものの喪失を悼みながら受け入れる。
 けれど、その理が何者かの手によって侵されたのだとすれば、教会も、そしてそこに属する葬儀屋も看過するわけにはいかない。


「この地区の担当者が対応できないくらい、現場は回ってないのにね」
「まあ、国境近くで大規模な災害が起きてから、まだそんなに経ってませんし」
「それで、なんであんたがご指名されたわけ?」
「例の災害時に別件で動いていた関係で、ちょうど今スケジュールが浮いてるからですかね」
「つまりヒマそうに見えた? あんたって運がいいのか悪いのかわかんないわね」
「本部の命令には逆らえないんで」


 視線を町へ戻せば、いつのまにかこちらの馬車を不思議そうな表情で遠巻きに囲む人々の姿が目に入る。

「よその町の葬儀屋さんとはめずらしいねぇ」
「花葬の予定は聞いてないんだがね、先生の所に呼ばれたのか」

 ゼンマイ仕掛けの人形みたいな存在感と絵画の前に立たされているような距離感が、僕に戸惑いと拒絶の揺らぎを伝えてくる。
 きれいなだけでは済まない、いやな違和感。

『信じない』『ウソだ』『いかないで』『こんなの認めない』『まだ何も返せてないのに』

 耳の奥では誰とも知れない小さな声たちがチリチリとさざめいては、僕を不安定に揺さぶる。
 いかにも何かが起きているこの状況に、深く溜息が落ちた。
 それでも当たり障りなくあいさつを交わし、それとなく先生と呼ばれる人物がこの町で唯一の医者であることを聞き出して、馬車を進める。
 目指すは、町のはずれに見える丘。
 そびえるのは、陽の光をあびてなお陰を落とす白亜の館だ。
 もう一度溜息をつけば、エリナが僕の傍らで花がほころぶように笑った。

「見て、まるで御伽噺の世界みたいよ」

 辿りついた白亜の館には、複雑に入り組んだ紋様をレリーフとした門を境界として、本来ならば咲くはずのない、色を持たない水晶硝子の透き通った花々が風に揺れていた。


 馬車を降りればなおのこと、敷地内へ侵入することを躊躇わせるほどに静謐な冷たさを感じてしまう。
 若干怯みつつも、僕は呼び鈴のない門の前で来訪の意思を大声で告げ、返答を待たずにエリナとともに踏み出した。
 僕が歩くたび、花たちがガラス質の繊細な音色をしゃんりると響かせる。

 粉々に踏み砕きそうだと胸をざわつかせたところで――


「ようこそ、わが診療所へ」

 開け放たれた扉の間で、初老と呼ぶには若く、けれど青年というにはあまりにも影の濃い白衣の男が、両手を広げて僕たちを迎えた。

「そろそろ来る頃だと思っていたんだ。さあ、どうぞ中へ。案内しよう」
「え、あの」

 驚きに目を見開くこちらに対し、相手はなぜか同情めいた笑みを浮かべ、当然のように屋敷の奥へと招きいれる。
 まるで絵画の中へと導かれていくような、不可解な感触。
 世界の位相がずれたとき特有の奇妙な違和感も、膜のように肌にまとわりついてくる。


「ああ、そう警戒しなくても、きみの目的は分かっているよ、葬儀屋さん。噂の真偽を確かめに、という大義名分でこの私を取り調べに来たのだろう?」


 わざわざ足を止めて振り返って告げられた言葉に、なぜ僕は憐憫を見出すのだろう。
 たぶん、精霊はここにいる。
 空間の揺らぎがそれを僕に伝えてくれる。
 なのに、彼はなぜためらいなく無防備に僕を連れ歩くのか。
 思わず傍らのエリナへ視線を落とせば、彼女は悪戯めいた笑みで、「大丈夫よ」と囁いた。

 結局、疑問にひとつの答えも見つけられないまま、ついには最奥の部屋から地下室まで足を踏み入れてしまった。

「君が求めている答えは、ここに在るんだよ。なに、隠すことなど何もない」


 彼は微笑む。


「彼の妻だ。美しい姿のまま、僕のそばに居続けてくれる」


 水晶硝子の棺の中に水晶硝子の花々を敷き詰めて、彼女はただ眠っているかのように瞼を閉じて横たわっていた。
 生前の姿そのままの美しい姿だ。
 もうどこにも生命の気配はないというのに。


「……これは」


 柩が安置されている祭壇には、やはり硝子の花が咲いている。
 しゃんりると嘆きの声をあげるソレは、精霊の変わり果てた姿なのだと、遅れて気づいた。


「妻はね、神に愛されたがゆえに長く生きることは許されなかった。でも、私たちは出会い、そして私は抗う術をある書物の神から賜ったのだ」


 部屋の壁に、床に、机に、棚に、ありとあらゆるものに狂気的なまでに書き込まれ、刻まれているのは、無数の紋様、無数の呪言――冥府の女神に属する精霊を無慈悲に無機的に冷徹に厳重に厳格に拘束し、支配するモノだ。
 システムとして精霊を組み込む、悍ましくも神々しい執念の集大成だ。


「疑いたまえ、考えたまえ、抗いたまえ、与えられた常識は、果たして従うべきものなのか」
 いかなる存在が、彼をここまで導いたのだろう。
 いずこの神が、彼に啓示を与えたのだろう。


「書物の神は示してくれた。死の瞬間を捉えて永遠に生前と同じ美しい姿のままに、自身の元へとどめおける術を。なぜそんなものが存在する? 存在するということは、世界が許容したということではないかな?」


 捲し立てるのではなく、流れるように落とされていく言葉。


「死がふたりをわかつとも、精霊ごときに奪われる道理はない」


 泣きたくなるほどに無垢な瞳で、在らざる世界に想いを馳せる彼の声はまるで呪文のような独特の抑揚を持っていて、耳の奥でさざめく悲鳴とともに、眩暈を伴って僕の視界に覆いかぶさってくる。


 現実感が遠のいて。
 記憶の輪郭が溶け出していく。


『いかないで』『そばにいて』『うそ』『ここにいて』『ひとりにしないで』


 あの日――そう、あの大災害の日、葬儀屋の仲間たちも大勢巻き込まれたんだ。
 黒髪の綺麗な兄弟も、強い瞳の青年も、たおやかに笑う先輩も、渦巻くピンクがかった金色の花弁に飲まれながら、自らも花弁となって崩れていった。


 弔いの鐘が響き渡り、あたり一帯が花びらに埋め尽くされたのだと、聴いた。


 すべては伝聞だ。
 僕はいなかった。


 先輩たちが花びらになる時も、その花びらが世界に溶けて消える時も、僕は立ち会うことができない場所にいた。

 唐突に告げられた喪失。
 唐突に突き付けられた永遠の不在。
 この手をすり抜けた大切な日常。

「君は私と同じ目をしている。世界の理を、君もまた許してはいないんだろう?」

 僕がこの町の調査に駆り出された本当の理由を考える。
 精神の著しい消耗ゆえに休暇を命じられたのか、現実を見ろと叱責されたのか、葬儀屋として早く立ち直れと激励されていたのか、今となっては分からない。

 わかることは、ただひとつ。


 エリナは、僕の師匠はもう、本当はどこにもいない。


 いまもたしかに僕の隣に立ち、瞳をキラキラさせて笑っているのに、僕以外の誰にも彼女は見えないのだ。
 あたりまえのように死と触れ、隣人のように接し、あるがままの摂理を受け入れてきたというのに、葬儀屋としての僕の自我を、喪失に嘆く僕が上回ってしまったから。
 現実からひたすらに目を背け続けた結果が隣の彼女だというのなら、僕は今、狂気の淵に立っているのだろうか。
 破綻する未来に目をつむり、歩いているのか。


「君ならば、分かるはずだ。精霊を贄に理を覆す、この一歩がどれほどに大きく意義あるものかが」


 甘美な誘惑を口にする、彼の傍らに眠る女性の姿に泣きたくなる。


「君も来るだろう?」


 でも、だ。
 母のように、姉のように、心の底から愛したエリナ師匠が微笑んでくれる選択をしなければという、忠誠心にも近しい想いが、僕を世界に繋ぎ留める。


「僕は葬儀屋です。死を悼む方々の喪失に寄り添い、心の安寧を取り戻す役割をもつ存在なんです」

 彼にとってもたらされる“抗い”の行きつく先が視えてしまったからこそ、僕は彼の狂気に己の矜持を添えて告げる。

「だから、死がふたりを分かつまでは」

 いつかくる破綻瞬間までは彼に寄り添いたいと願い、伸ばされたその手を取った。



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