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空想マトリョーシカ/もちはこび短歌(21)

深くふかく封じたひとの熱量を語ることなく在る鉄の町
國森晴野『いちまいの羊歯』(書肆侃侃房、2017年)

「ステイホーム」の日々は、空想の時間が増える。空想は何よりも楽しい。わたしは日常的に歌を詠むけれど、そういう時間にしか短歌は生まれない。少なくともわたしの場合は。
 外出中に空想することは意外と難しい。たとえ一人でいたとしても。ぶつからないように歩こうとか、電車の乗り換えを間違えないようにしようとか、待ち合わせ時間まであと何分あるだろうかとか、どんな表情で待ち人の前に現れようかとか、いろいろな問題がふりかかり、思考が現実的かつ合理的になってくる。外界に出るとはそういうことらしい。
 でも、慣れ親しんだ自室には、考えなければ解決できない現実は極めて少ない。そうなると自然と空想が始まる。幸せな自室時間。
 空想というと、わたしは國森晴野さんのこの歌を思い出す。國森さんも空想しながら短歌を作る歌人さんだ。
 この歌は、國森さんの第一歌集『いちまいの羊歯』に、「の、町」という連作の一首として掲載されている。「糸の町」「本の町」「貝の町」「歌の町」「青の町」など、18もの様々な町が登場し、すべての歌が「〜の町」で終わる。この一連は、架空の町々を架空の主人公が渡り歩く架空の旅のお話だ。そんなファンタジーの中でも、わたしは特にこの「鉄の町」の歌が大好きだ。切なさがいい。
 初めて読んだ時、わたしは岩手県釜石市を思った。釜石を訪れたことは一度もないけれど、幼い頃から地名は知っていた。わたしの幼少期、新日鉄釜石ラグビー部はラグビー日本選手権7連覇を達成。彼らは「北の鉄人」と呼ばれ全国にその名を轟かせた。だからスポーツ好きのわたしには、鉄の町というと釜石が真っ先に頭に浮かぶのだ。鉄の町でありラグビーの町。
 20世紀の終わり、鉄の町・釜石では高炉停止など事業の変化に伴い新たな道の模索が始まる。新日鉄釜石の7連覇ストップの後、ラグビーの町としても長い低迷期に入る。わたしは、その後の釜石を主人公が訪れたような、そんな空想をしながらこの歌を読んだ。北の鉄人たちの熱い思いが、伝説として封じ込められた町。あの白襟を立てた鮮やかな朱色のジャージの寡黙そうな男たちを思い出し、胸が熱くなる。
 もちろん國森さんは、ラグビーのことなどまったく念頭になく「鉄の町」を詠んだことだろう。作歌時には、わたしには思いつかないような空想をしていたはずだ。実際に國森さんはこの歌について、このように語っている。

鉄で栄えた町には熱い鋼炉があって、でも町全体は熱いわけではないんです。そこに来た時に、自分が恋をしていたことを思い出したのだろうなあ、という背景があった気がします。「の、町」の一連も、三十くらいの町から絞りました。旅をする順番にも意味があって。町自体も語りたいことがあっても語れない、旅をしている主体にもそういう思いがあるからわかるというか。そんなことを考えながらつくっていました。
「合同批評会『羊歯とボート』パンフレット」より抜粋(2018年)

 それでも、「鉄の町」にかかる「語ることなく在る」までの言葉のすべてで、作者である國森さんと読者であるわたしの思いが、どこか重なり合っているのではないかと勝手に思っている。寡黙さや、ある種の寂しさ、そして切なさ。恋とラグビーというまったく違う出発点からの空想も、同じ感覚に着地するとしたら、それは短歌の、言葉の面白さだと思う。
 2011年の東日本大震災で、釜石は甚大な被害を受けた。その後の復興の歩みの中で、津波により全壊した小中学校の跡地に釜石鵜住居復興スタジアムが生まれる。昨年のワールドカップラクビー日本大会の会場の一つとなった競技場だ。当地での試合を自室でテレビ観戦しながら、わたしはやっぱりこの歌を思い出していた。そして、この歌を思い出す時には、わたしとはまったく違う角度から「鉄の町」について空想している読者がたくさん存在しているのだろうな、といつも空想している。空想に空想を重ねるマトリョーシカ状態。
 作者の一つの空想から、無数の読者の空想が生まれる。そういう状況を空想することも、わたしのたのしみの一つ。空想は自室における最高の自由なのだ。

文・写真●小野田光
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「もちはこび短歌」では、わたしの記憶の中で、日々もちはこんでいる短歌をご紹介しています。更新は不定期ですが、これからもお読みいただけますとうれしいです。よろしくお願いいたします。

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