祖父の死
今日4/18、祖父の四十九日。
亡くなってすぐ書き始めたのですが、なかなかまとまらず、今日まで来てしまいました。
今日は書面上での気持ちに区切りをつけるために、書き切ろうと思います。
ぜひ最後まで読んでいただきたいです。
祖父が死んだ。
3/1の夜遅く、病院から血圧が20を下回ったという連絡がきた。
その日の昼間までは「安定しているので大丈夫でしょう」と言われていたのに、だ。
入院していた理由は脳挫傷である。なんでも、散歩中に風に煽られ後ろ向きに倒れ後頭部を強打したという。
祖父はこれまでも何度か入院していたが、脳梗塞の時も、誤嚥性肺炎の時も、「覚悟はしておいてください」と言われていたにもかかわらず、毎回回復していたため今回も大丈夫だと思っていた。
すぐに車で病院に向かったが、コロナウイルスによる感染防止のために病室に入れるのは1人と言われ、ロビーで待っていた。病室には祖母が行った。
祖母が病室から帰ってくるまでの約30分、とても座って待っている気にはなれず、何度もトイレに行ったり、ロビー周辺をうろうろしていた。
正直、待っている間は何を考えているか覚えていない、というか何を思っていればいいのかよくわからなかった。親しくしていた身内が亡くなるのは初めての経験だったし、実感などというのも湧かなかった。一つ確かなことは脳内ではとても混乱していたということである。
その後祖母が泣きながらに帰ってきて、「間に合わなかった」と言った。
「は?」と思った。「え?どゆこと?ん?まじでわからん。いや、ほんと何言ってるの?」と。
話を聞くと、祖母が病室に着く前に息を引き取ったらしい。
しかし死亡時刻を聞くと、私たちが病院に到着した時刻より後なのである。
コロナ禍特有の問題だ。
私たちが病院に到着し、消毒、検温をした。ここまでは普通のことだ。
しかし問題はその後である。
急いで全員で病室に向かおうとしたら、医師に止められた。「ここに全員の名前を記入してください。また、今の時期病室に入れるのは1人に制限しております。」
一瞬の思考停止。
すぐに叔父にあたる人物が口を開いた。「おかしいでしょ、もうすぐ死ぬかもしれないのに?」医師も引き下がらない。記入する時間、いくつかのやり取りによって時間は過ぎていった。
確かに、規則として、感染防止対策として決められているかもしれない。
だが、もうすぐ永遠に会えなくなるかもしれない人と会えない。会える距離にいるのに、会えない。それは如何なものか。
祖父の死を聞いた時、私は後悔した。
もっと色々話をすればよかった。
お見舞いに行っていればよかった。
と。
先ほども述べたように私は身近な人の死を経験していない。そのため、入院していたとしてもあまり重要視せず、とくに気にしていなかったのだ。
最後に会ったのは3ヶ月前のお正月にお年玉を貰いに行ったときだった。まさかその時が最後になるとは全然思っていなかった。
祖父の死を聞いてから約1時間後。(そんなに経っていないのかもしれない。体感ではとても長く感じた。)
管が外され、爪が切られ、体が拭かれ、綺麗になった祖父の遺体が安置室に運ばれた。
安置室で医療用ベットに横たわる祖父は色白で痩せていた。
そして、やはり動かなかった。
そこからの動きは忙しかった。葬儀屋の手配、火葬場、遺体の処置など。
どんどん進んでいく死亡後の手配。とても息苦しかった。ついさっきまでは生きていたのに、もう葬儀や火葬などを決めなければいけない。
傷心する時間はない。
ひと段落し、全ての手配が終わった時、とても疲れた。
葬儀屋の人が来てエンバーミングという処置をするために霊柩車で運ばれていった祖父を見届けた後、私たちは帰った。午前2時のことだった。
家に帰った後、millennium parade の『FAMILIA』を聴きながら、号泣しながら寝た。
次の日。
エンバーミング処置された祖父が家に帰ってきた。この処置を施した祖父は火葬される直前まで綺麗なままだった。
火葬の日時は一週間後に決まった。
家族葬にした。
葬式前日。
出棺を見届けた後、家族葬の会場を見てその日は帰った。
浄土真宗のため式場は白と緑を基調としたシンプルな会場だった。
葬式当日。
家族葬の会場にて集合した後、火葬の会場へと向かった。会場に着くと、自分たち以外にも10組以上居た。
火葬を終えたあと遺骨を見たが、綺麗に残っていて驚いた。
そして人ひとりが入るには窮屈な、円柱の陶器に押し込まれていった。
直後、驚いたことがある。
遺骨が入っている袋が想像していたのとは違ったのだ。白く綺麗で装飾の施された袋は下面が空いており、上から被せる形で収まったのである。
火葬を終えて葬儀場に帰ってきたのち、お坊さんのお経とお話を聞いて葬儀は終了した。
遺影の前で集合写真を撮ったのだが、みんなひどい顔をしていた。
その後出された料理は豪勢で美味しかった。
そして時が経ち、高校最後の卒業旅行や大学の入学式(祖父の命日からちょうど1ヶ月のことだった)などのイベントを乗り越え、本日の四十九日を迎えた。
四十九日(4/18)。
仏壇は黒く光っており、内側までも照明で照らされていた。
初めにお坊さんから、あたましほうよう(?)など専門的な話を聞き、お経を聞いて、位牌を撮した。(この場合の「うつす」はこの字を使うらしい。間違ってたらすみません。。)
お坊さんがお経の時に、舎利弗(しゃりほつ)と何度も言っていたのが印象に強く残っている。
以上が祖父の死から四十九日までの話である。
以下では自分がこの期間で思ったことを記そうと思う。
まず、この期間は祖父の家で過ごすことが多かった。
生前よりも死後の方が過ごす時間が長いというのは皮肉なことであった。
後悔しても、し切れない。
しかし悪いことばかりではない。これまではあまり関わりのなかった叔父たちと結構仲良くなれた。葬儀に関する知識、流れがわかった。
そして、人と関わりあえている今この時間がいいと思った。
どうしても故人と話したくても、いない。
何よりも良かったことは、この状況の悲しさに気づけたことだ。
このコロナ禍において自分と同じような悲しい思いをした人はたくさんいるだろう。コロナがもっと酷かった半年前などは遺骨だけ帰ってくるというニュースもあった。
それぞれコロナに対する憤りや故人に対する悲しみはあると思うがそれを乗り越えて生きていかなければならない。
最後に、私はこの悲しみを原動力にしてこれから4年間の大学生活をしっかり生きようと考える。先日入部が決定した学園祭実行委員を主軸に、学問や部活動、アルバイトなどにも励む。
そして法曹三者への夢を実現する。
最後まで読んでくださりありがとうございました!
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みなさんもお身体に気をつけてこれから先の人生楽しく行きましょう!
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