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セプテンバー・イレブン

2001年9月11日。
歴史的事件の最中、僕の髪はまだ焼きそばの香ばしい匂いをほのかに醸し出している。

巷の話題といえばイチローだった。
この年、シアトル・マリナーズに鳴り物入りで移籍した彼は、連日のようにヒットを量産していた。
メジャーリーグの豪腕達をいとも簡単に打ち崩していく姿を、ワイドショーやスポーツニュースが嬉々として報道している。
「同じ日本人として誇らしいですね」なんてコメントを聞くたびに、僕は同意と同時に、醜い劣等感を感じていた。

イチローは凄いな。選ばれた人間は違うよな。

・・・選ばれた?誰に?

神に?
世界に?

* * *

もうじき20歳になる僕は、"どうしようもない" 大学生だった。

どうしようもない、というのは、粋がって東京に出てきたものの大学の授業もさほど興味が湧かず、軽音サークルの部室でだらだらと人生の貴重な時間を絶賛無駄にしている学生の事を言う。

プログラミングは好きだったが、まだインターネットはダイヤルアップ接続時代。まさかそれが職業になっていくとはこの時は想像もできなかった。

アルバイトすら転々とする始末で悶々とする日々だったが、なんとか見つけた新しいバイトは、朝まで営業している駅前の居酒屋の厨房だった。

特に料理ができるわけでもなかった。かといって接客はもっと苦手だ。
元々夜型人間で朝まで起きているのは苦じゃなかったし、時給も良さそうだったので、やってみることにした。
まあ料理を覚えるのも悪くないかな、くらいの軽いノリだった。
だいたいこの頃の僕はノリで生きていた。深く物事を考えた記憶が無い。

だがいざ働いてみると、店の名前は伏せておくが、残業代が払われなかったり、休憩時間も無かったり、連日15時間ほどぶっ続けで働かせられたりと、残念ながら完全なブラックだった。

しまいには時々本社から視察にくるお偉いさんがコワモテのブラックスーツに金のネックレスで、どう見てもカタギじゃなかった。
雇われ店長を怒鳴り散らして帰るのが恒例行事になっていた。

スタッフはどんどん辞めていき、最終的には週末でもワンオペ状態。どう見ても異常だった。

ただ、上からはいつも怒鳴られて、仲間が次々といなくなっていくのをひたすら耐えている店長が少しかわいそうに思えて、僕はなんとなく辞められずにいた。
職場は酷かったが、原因は上層部の体質であるのは明らかで、店長の事は悪く思えなかった。

僕自身も、またすぐに仕事を辞めたくないという変な意地や、人がいなくなった結果、店長と二人で朝を迎える事も増えたためか、もしかしたら劣等感に苛まれる者同士の妙な仲間意識もあったかもしれない。

ある日の夜、厨房はやはり僕一人しかいなかった。ホールは店長一人。
「はあ。またか…」
すぐに息をする暇も無いほど忙しくなった。

案の定、しばらくすると料理が遅いとクレームの嵐。
僕は半べそをかきながら中華鍋を振り続ける。
溜まっていくオーダーの山。

地獄絵図の中、よりによってコワモテの幹部が視察に来ていた。さらにコワモテはこの状況にキレて、ついに厨房に入ってきたのだった。

「とっとと作れや、このクソガキが!!」

そう言い放ち、さっき僕が作った焼きそばを投げつけてきた。

スローモーションに見えた。
宙を舞った焼きそばが、僕の顔に見事にかかった。

限界だった。
もうどうなってもいい。
こいつを一発殴って辞めてやる。
怒りに任せて拳を握った。

次の瞬間、コワモテの後ろにいた店長と目が合った。
止めるでもなく、促すでもなく、ただ悟ったような目で僕を見つめている。

ああ、店長も限界なんだな。

もう俺がこいつを殴っても、止めないだろうな。
そしたら店長、この後どうなるんだろうな。

僕は、なんとか怒りを抑えて、拳を閉まった。
だいたい人を殴った事が無いので、本当は殴り方なんてよくわからなかったけれど。
「すみません」
自分でも驚くほど感情の無い声で、コワモテに平謝りした。

「なんだテメエその態度は!ふざけんなクソガキがよお!」

とかなんとか罵声を浴びせられたが、そこからコワモテが何を言っていたのかあまり思い出せない。

朝になった。
店長と二人っきりの店で、片付けをした。

「お前、もう辞めていいぞ。…いろいろ悪かったな」

力の無い声でそう言われたのが、店長との最後の記憶だ。

この日、僕はまたバイトを辞めた。

* * *

くたくたになって帰宅した僕は、焼きそばの匂いが染み付いた香ばしい髪をシャワーで洗い流し、ベッドに倒れ込んだ。

「・・・あんかけじゃなくてまだ良かったかもな」と自嘲気味に、つまらないことを呟いてみる。
いつの間にか寝落ちしていた。

夜中に目が覚めて、点けたテレビから飛び込んできたのは、ニューヨークのツインタワーに飛行機が突っ込む映像だった。

2001年9月11日。

悔しかった。
事故が悲惨だから悔しかったわけじゃない。

僕はといえば、自分の事ひとつ何も成し得ず、どうにかしたくても理不尽な状況に贖えず、いやそもそも贖う方法もわからない、どうしようもなく弱く、空っぽの大学生だ。
そして、こんな奴を置き去りにして世界は回っているような気がして、無力感と悔しさが、どっと込み上げた。

寝起きの気だるさ、現実感の無い映像、昨日のバイトの出来事。
小さくてどうしようもない僕の東京。
そんな事お構いなしに刻々と変わる世界。

僕は四畳半のおそろしく狭い部屋で14型のテレビデオ越しに、まさに他人事のように、世紀の大惨事をただ呆然と眺めていた。

数ヶ月後、件の店はほどなくして閉店となった。
その後の店長がどうなったのか、僕は知らない。

* * *

あれから18年。
ご存知のとおり、イチローは野球の歴史を次々と塗り替え、2019年の今年ついに引退した。

イチローと比べるのもおこがましいが、彼と何周も周回遅れで、僕はようやく経験値と、一応の能力らしきものを頼りない武器にして起業している。

今は、曲がりなりにも世界の中の一人に選ばれているんだろうか。

いや、そもそも誰かが選んでくれるものではなかったわけだ。当然だけど。
あのイチローだって、引退会見の言葉を借りれば「自分なりに積み重ねてきただけ」だったのだから。

「一気になんか高みにいこうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので、まぁ地道に進むしかない。…あれ、僕おかしい事言ってます?」

* * *

9月になると、思い出す。
ニューヨークのツインタワーと、不世出の天才打者のことを。

遠い日の、ちょっぴり苦い記憶と、焼きそばの匂いと共に。

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