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神様だって、ありがとうって言われたいかも-マレーシア留学日記2

先日、Thai Chetawan Templeまで行ってきました。
(Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/Wat_Chetawan)

ここは、1957年に建設されたタイ式の仏教寺院。

ルームメイトの子たちはそれぞれ予定があるようでしたから1人で。せっかく1人ならと、ゆっくりと歩いていきました。

斜めになっている標識、タイヤを鉢植えにした植木、見たことのない花。
慣れない国の景色は目新しくて、ディズニーランドに来たみたいな気分!

あんまり暑いので途中で入ったことのないお店に入ってみたり、カフェで涼んでみたりしながらあるくのもゆったりしていて楽しい。

※今回は少し宗教の話をします!注意を払いますが、もしも間違ったこと、傷つくようなことを言ってしまったらすみません。遠慮なくご指摘ください!


日本と違うお祈りの方式

寄り道に寄り道を重ね(google mapの案内より1時間以上もかかってしまった笑)、住宅街を抜けると鮮やかなお寺が!
入り口の目の前でお花を売っていたお爺さんとお話ししてお花を買い、中に入るとお香の香りと鮮やかな色に包まれる。

そこには、たくさんの神様をかたどる像と、その神様に祈りを捧げるたくさんの人がいた。

日本のお寺と方式が違くて、土足は禁止。
神様の周りには、お花や、(おそらく神様が飲みやすいように?)ふたの空いた、日本で見たことのない赤い色のジュースがたくさん置いてあった。

周りを見ると、火をつけたお線香を額あたりに掲げ、正座をしてお祈りをしている人がたくさんいる。
みんなお線香どこで手に入れてるのかしら、と思ったら、お賽銭箱のようなものの隣にお線香が積み重ねられるように置いてあった。

「お線香1本につき何円!みたいなもの、決まっているんですか」
たどたどしい英語でお祈りに来た男性に聞いてみる(聞いた後に、とても情緒のない質問をしてしまったと少し後悔した)と、
「気持ちの分だけ、お金を入れればいいんですよ」と優しく教えてくれた。

見よう見まねでお賽銭を入れ、お線香に火をつけ、正座をし、目を閉じてお祈りをする。
初めての海外、初めての留学でどこかずっと緊張していたらしい心が落ちついて、お祈りした後は少し気持ちが軽くなった。

入り口の目の前で売っていたお花。名前も教えてくれたのだけど、忘れてしまった。

私の思う「神様」

日本では感じることは少なかったけど、マレーシアに来ると宗教がぐっと身近に感じて、神様のことを考えることが増えた。
でも、私自身は何か特定の宗教を信じているわけではない。(失礼なことをしていたら、ほんとうにごめんなさい。)

しかしながら、もしかしたらあべこべなことを言っているのかもしれないけど、私は神様の存在を信じている。

なぜそう思うかといえばはっきりいうことはできないのだけど、
私の小さい頃お母さんがよく言っていた、「ご飯粒の中には7人の神様がいる」話はいまだに何となく信じているし、苦しい時や一踏ん張りしたい時のお祈りは、私の心をちょっと丈夫にしてくれる。

そして、私が生まれるずっとずっとずーーーっと昔から神様を信じて、天に祈り、自然を拝み、大きな時間と労力をかけて美しい建造物をつくり、時には命まで捧げてきた人がいる。

私は、神様を見たこともないし、神様に触れたこともない。
でも、そんなに人を大きく動かし続けている神様の存在を、
「目に見えないでしょ」と認めないなんてことは私にはできない。

せっかく多文化が混ざり合うマレーシアにきているのだ。たくさん宗教に触れて、神様のことをもっと知れたらいいな、と思う。


歩いた道。ピンクのお花が眩しい。

神様の気持ちを考える

「こんなにたくさんの人の話を聞くの、大変じゃないのかなあ」
 お寺の中で、ふと、神様の気持ちを考えてしまった。

というのも、そのお寺にはほんっっっとうにたくさんの人がいたのだ。

「お金持ちになりたい!」
「宇宙飛行士になりたい!!」
「頭良くなりたい!!!」

もしもそういった”自分”に意識の向いたお祈りばっかりだったら、神様も疲れて聞きたくないよ!ってならないのかなあ。私だったら疲れちゃうなあ。

このお寺の中にいる何人かでも、「これからしてほしいこと」を伝えるだけじゃなくて、「これまでしてくれたこと」にありがとうを伝えることができていたらいいな、と思った。

だって、与えるばっかりじゃ苦しいから。

例えば家族に、リクエストの通りオムライスを作った時に、
「ありがとう」
じゃなくて
「デザートもほしいな」とか「もっと美味しいのを作ってほしい」
なんて言われてしまったら、何というか、虚しい。

別に「ありがとう」を言われたくてやっているわけではなかったとしても、そんなの、「気持ちのキャッチボール」というより「気持ちの壁打ち」だ。


神様の気持ちを直接聞いたことはないからわからないけど、「ありがとう」の気持ちを伝えられなかったら、きっと神様もおんなじように感じるんじゃないかな、と思った。

私が今、家やご飯に困ることがなくて、マレーシアで勉強をすることができていて、素敵な人たちと出会うことができていることは、文字通り「有難い」ことだ。

周囲にいる家族や友人、ルームメイトや先生、お店の人に「ありがとう」の気持ちを持つことはもちろん、いつも静かに見守ってくれている神様にも感謝の気持ちが届くように、心をこめて、もう一度、手を合わせた。


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