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第2章 子どもが教えてくれたこと(第4節:子育ては自分育て)

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子育てをしながら自分をやり直し

カラフルフードセラピーの料理教室をし主催・運営しはじめた頃、長男は年中さん、次男はにじ組さん(2歳児クラス)でした。

息子達が通った幼稚園は埼玉県狭山市にある自然体験教育を軸とした無認可幼稚園《けやの森学園》でした。自然体験教育を軸としていることに共感したのは理不尽を味わえるから。理屈が通らない、わがままが通らない。だからこそ「何ができるか」を考える視点を頭ではなく体で感じておいて欲しいと思ったからです。そして実際に説明会へ行った時、子どもをお客様扱いしていない様子と、子ども達と先生方の信頼関係にとても感銘を受けました。対等感も含め、本当の意味での人間教育をしてもらえると思って決めました。

長男が年中〜年長になる頃、わたしは料理教室の仕事を初め、マインドの変化も味わい出した頃でした。”何よりも仕事が優先。そうでなければわたしの存在価値はない”という思い込みや、人事の仕事で結果を出してきた!好きなはず!という執着を、本当の自分と対峙しながら手放している最中でした。同時に子どもにまっすぐ大好きを伝えよう、と一緒にいる時間を増やし始めた頃でもあります。

本当に大事にしたいものを大事にして生きよう

そう決めて、ごはんづくりひとつ、「本当に食べたいものを食べること」「子どもよりわたしを優先すること」を徹底しながら「本当に欲しているものを選択する訓練」を重ねていました。




そんな中、長男が年長に上がる時の面談で、先生からこんなことを言われたのです


「○○くん、逃げ場がなくてキツいんじゃないですか?」

と。


え?


意味がわからなくて。

「どういう意味ですか?」

「わたしが彼を追い詰めているとでも?」



「本当の彼がなかなか出てこないのです」と先生がおっしゃいました。

「いわゆる”いい子”なんです。さっと動くし、ちゃんと意見言うし。積極的に物事に関わるし。だけどいい子すぎるんです」と。


そして、、、何かを察したのか、長男が泣き出したのです。

わたしは先生の言っている意味が全然理解できなくて。だけどわたしに原因があるんじゃないかと言いたいんだ、ということだけは理解ができました。長男が長男らしく過ごせていない。その原因はお母さんではありませんか?と。

なぜ息子の前でそんなことを?わたしが彼を愛していないとでも?こんなに愛しているのに!!!!何を言ってるんですか!先生!!!!


それから何度も面談を重ねました。

その度に「息子さんが息子さんを表現できない原因はお母さんが押さえつけているからです。」と言われているようで、わたしの愛情を否定されているようで、腹立たしいやら悔しいやら。何度泣いたかわかりません。


でも、長男がいい子と言われたことはわたしには引っかかっていました。年長児でいい子である必要はない、と思っていたからです。今でもそうですが「いい子」を褒め言葉だとは思っていません。


そんな時ある方からこの本を勧められ読みました。



読んだ時衝撃的だったのが「なんとなくの世界がある」ということでした。


なんとなくこうしたい

なんとなくこっちがいい

なんとなくやってみた

なんとなくやだ


そんな世界があってそんな世界こそが7歳までに味わえる想像的で創造的な世界。人生の原体験となる世界。


答えを出すこと、こっちがいいと決めること。それはおとなの都合だったこと、エゴだったことに氣付いたんです。

何かができるようになることよりも、そこに向かっていくプロセスの中で味わうことこそが、この世代にとって感性を育てるプロセスであること。



さらに自然体験活動中のこと。

子ども達は川活動から上がってからの準備を自分たちで行います。リュックからタオルをだし、着替えをだし、、、先生の指示の通り手を動かし準備する子ども達。その最中、みるみる息子の顔色変わったのです。

そして泣きながら先生に何かを伝えていました。



何があったのか、、、


川から出てから着替える時、自分の荷物とわかるように「名前を上にして」タオルと着替えをおいておく。

その指示の通りに手を動かしていたら、タオルに名前が書いてなかったことに気付き、先生に「名前がないのでどうしたらいいか」聞いたらしいのでした。



たかがそんなこと、と思われるかもしれません。ですがわたしはこれがすごく心に響いたんです。そしてすごくショックでした。



何かができるようになる、何者かになる。そのために何かを学ぶ。

ではない・・・・・!!!


本で読んだことと、現実が繋がりました。


「○○ができるようになるために。」「だからできるように」「だからやろう」というゴール設定の強制。

「なぜ必要か」という動機や裏付け(という名の理屈)が大事、という固定概念が強かったことにショックを受けました。


なんとなくやりたい。なんとなくできるようになろう。

そんなゆるりとした曖昧な感覚があっていいんだ。。。。。。





そして子どもが学びに集中できる環境を整えるとはどういうことか。やってあげる、も違うけど、あえてやってあげないということがどういうことか。この視点のズレが子どもの環境を乱すことを身を以て味わいました。


名前がなかったこと、みんなができている準備ができなかったこと、それによって息子がネガティブな氣持ちをひきずって学びに集中できないことだってあるわけです。年長児ですから、そんな簡単に氣持ちを切り替えられないことだってあります。

学びに集中できる環境を整えることが私たち親の役目で。

学びのツールに関しては我々が口を出すことではない。そこは指導者と子ども達の信頼関係を信頼するしかないのですよね。


子どもの学びに母として寄り添うということがどういうことか、ものすごく腑に落ちたのです。





人前で自分の意見を発表しようとすると何を言っていいかわからなくて泣き出すこともありました。

「言いたいことがお母さんの意図を汲み取っているのか、正解なのか考えてしまって言葉が出なくなってしまうんじゃないでしょうか」

そんな風に先生に言われたこともありました。


寄り添うは「一緒にやってあげる」ではない。寄り添うは寄り添うなんですいよね。

きっと長男は窮屈だったろうなぁ。






長男ばかりの話になりましたが、もちろん次男からの学びもありました。


長男にばかり氣を取られていたわたしに、次男の担任の先生が「◎◎くんも見てあげてくださいね」と言われたんです。


あーーーーーー・・・・

見透かされたようなバツの悪さ。逃げていたことと向き合わなければならないと思いました。


長男のことが大好きな次男に「お兄ちゃんに遊んでもらったらいいよ」と任せているフリをして放置している母親としての拗ね。

そんなわたしの態度が、次男の「目を見て話しができない」という姿に現れました。

「”どうせ”聞いてもらえない」という拗ねた氣持ちがあったようでした。子どもって無意識に態度に出るのですね。そう言った”態度”を親としてはつい戒めてしまいますが、原因が必ずあって。それを指摘して頂いたこと、今ではとても感謝しています。

「どうせ○○」という見方が、どうせバレないから適当にやる、その場しのぎで嘘をつく、どうせ聞いてもらえないから自分からお願いできない(結果放っておいて誰かに迷惑をかける)という態度につながっていました。今まで次男と雑に向き合ってきた分、わたしは彼の行動がとても重度の問題行動として感じるほど態度に現れていました。

次男とはことあるごとに「お母さんの顔見てお話して」「ねぇ、お母さんの方見て」と視線を合わせて対話するようにしました。とても面倒でとても時間がかかりましたが改善も感じていました。それでも飲み込みの早い長男とはペースが違い悩むこともあり、、、それでも卒園式の時の「卒園するんだ!やり切った!」という堂々とした様子を見て「彼のペースでしっかり学んでいる」と信頼できたんです。



そんなふうに子どもの問題課題を自分ごととしてひとつひとつ丁寧に受け取りながら「わたしが本当の寄り添いたい在り方・向き合い方」の土台を築きました。同時に「わたしが本当に選びたいものを選ぶ・したいことをする」という訓練もしました。そんな3年間は、たくさんの鎧を脱ぎ自分を縛っているものをほどいた時間にもなったのです。


第5節へ続く。





今のあなたのために。あなたの次世代のために。採種や栽培、堆肥づくりに必要な資材を買ったり、本当に心地よい環境にするために使わせて頂きます! 応援ありがとうございます♡感謝します☺︎