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子育ての節目

長男が4月に県外へ行きます。
行ったら行ったでもぬけの殻になりそうで怖いなw
次男は残りますからそんなことも言っていられないような氣もしますが。

このタイミングで
わたしがどんな生き方をしてきたのか
振り返ってみよう、と思いました。

わたしの生き方を語る時に
しごとと我が子育ては外せないフィールドです。

長男と一緒に歩んできた起業人生

会社を立ち上げて13年が経とうとしています。

その前は個人事業主として人事採用のコンサルやアウトソーシングを請け負う仕事をしていたのですが
新卒学生の就活支援をすることになったのがきっかけで、第一次産業のインターンシップ仲介業もやることになり、法人化することにしました。

立ち上げた時と今やっている事業、外から見ると全く違うサービス内容ですね。
ただわたしにとっては変わっていないんですよね。

今は「いのちを生きる」という言葉で表現していますけれども
結局「やりたい」をやっていこうぜ
「こう生きたい」に誠実に正直に生きていこうぜ、って思っていて
それをサポートし、自分も体現していくことが、いつでも真ん中にあります。
誰に対しても、愛とよろこびを真ん中にした生き方を提唱したいしわたしもしたいのですね。

外的な要因もありましたが、そういった思いを持って事業を法人化。そしてすぐ、長男がお腹に宿ったことがわかりました。

もちろん仕事は続けたかったのですが、人事の仕事って、乳飲み子を抱えてできるような仕事じゃないんですよね。めっちゃ夜の仕事なんです。

そんな時、就活支援で活用してたカラーセラピーがきっかけで、栄養管理士で料理研究家の田口先生とお知り合いになりまして「なりたい自分になれるしあわせ色ごはん」というレシピ本を出版する機会に恵まれました。

それで子どもがいてもできる仕事を、と考えて、わたし自身も料理教室を開催・運営するようになったわけですね。

書くとかなりあっさりですが、、、そこもまた葛藤はあったわけですが「お教室」ならできるかな、と始めたのが、わたしが料理の世界に足を踏み入れたきっかけです。

元々好きだったのか?

よく聞かれるんですよね。
「元々料理が好きたっだんですか?」って。

昔は「はい、そうです」ってなかなか言えませんでした。
だってセンスが飛び抜けていたり、資格をたくさん持っていたり、修行したわけでもなく。すごい人いっぱい知っていましたしね。
下手の横好きなんです、なんて、お金頂いているのに口が裂けても言えない!笑

それでね、最近考えてみたんですよ。
どうして「食」に関わりたかったのかな、って。
そうするとやっぱり幼少期の影響ってあるんだな、と思いました。

プレゴールデンエイジ、ゴールデンエイジ、って期間がありますよね。
6歳から9歳、9歳から12歳の時期を指していて、この時期に運動経験を積むことで飛躍的に運動能力が向上するといわれています。

わたしこれ、運動能力だけジャないんじゃないか、ってちょっと思っていて。
この時期に体験したことって、何かしらおとなになってからに影響しているんじゃないの?って仮説を立てて考えてみたんです。

わたしの6歳から12歳で印象的だったことといえば

  • 父親にめっちゃ運動をしこまれた(投げる・打つ・走る・飛ぶ)

  • 母親が仕事に行くようになって晩ご飯を作るようになった

  • 母親が仕事に行くようになって交換日記を始めた

  • イベントのたびに一流のおいしいを味わえていた

  • 母がごはんを作る時、いつも横にいた

こんな感じです。

野球狂の詩って漫画あったのご存知でしょうか。(かなり古いです!)
水原勇気という女性投手から名前をとったとも言われたわたしの名前。
男の子がさぞほしかった父は、わたしに投げる打つをかなり仕込みましたw
確かに運動神経は相当発達したと思います(笑)

5年生になった頃、母が仕事へ行くようになりました。帰宅したらすぐ作れるように、と母はキッチンに食材を準備して行く人だったんですね。小学生のわたしは、準備してある食材からメニューを予想して作っておく、ということをやるようになりました。
初めて作った煮魚はまる焦げになって(醤油を出汁で薄めないでつくった)それでも母は食べてくれたことを覚えています。

ちなみにわたしの家はテレビを見せてもらえない家だったので、夕方はやることなくていつも母の横にいて、ごはんつくっている手元をみていました。

交換日記が始まったのは、学校であったことを全く喋らないわたしに不安を感じた母が提案したことでした。

実は母の横にいたのも、学校であったことを報告するように喋っていたから。いつも母が「学校で何があったか言ってくれないと困る」と言って怒るわけです。佑紀は何も喋らない!って。それで義務のように1日あったことを語っていたわけです(今思うとそんな母がちょっと怖いw)

報告義務、みたいなお喋りだったからでしょうかね、わたしの氣持ちや考えが全くわからなくて母は不安だったのかもしれません。
それで学校であったことや妹に対して思ったことを毎日書くことになったわけですが(母も書いてくれていました)おかげで「書く」が全く苦ではなくなりました(大人になっても)
ただ、クリエイティブな作業ではなかったように思います。

そして、誰かの誕生日、クリスマス、そういったイベントがあると、銀座の寿司屋やスペイン料理、洋食店、、、連れて行ってもらっていました。
カウンターに座って職人さんが生み出すものを見ていたり、どうするとこんな味になるのか聞かせてもらったり。


こうやって書くと、やっぱり6歳から12歳の体験って大人になっても影響していますねぇ。
特にこういった体験の中で「クリエイティブな体験」は、多大な影響を受けている氣がします。
メニューを想像してごはんをつくること、外食へ行った時の「これどうやってつくるのか」を母がシェフに尋ねていたことやつくり手の手元を見ていたこと。

未だに、ごはんを作ることが好きかどうかはわからないけれど、あの頃のクリエイティブな体験は影響を受けているなとは感じます。
想像を創造すること、職人さんとの出会い。
そこがわたしにとっては「食」だったかもしれません。


なぜ食の道に進まなかったのか

中学3年生の時に「体育の先生になる」と決めて、高校を決めました。

推薦で体育大学へ進学し、部活はやらずに、アルバイト三昧。
塾の先生と居酒屋を掛け持ちしていたんですよね。
居酒屋のバイトではキッチンに入りたくて(女子はホールばっかり)、暇さえあればキッチンで魚の捌き方、焼き鳥の焼き方、鉄の中華鍋の振り方を教えてもらっていました。
あれ? 好きだったんじゃん!笑

そして就職を決める時に、親に本当のことを言えなかったなぁ、と後々思いました。
今よりもずっと飲食業界はブラックで、水商売と言われていた時代。
教員になるっていうから大学まで出してやった。って言われるかも。
ガッカリさせるよね。またわたしは親の期待に添えられないダメな子になっちゃう。
そんな風に思い込んで、銀行員と英語の教師の両親に言えなかったのでしょうね、当時のわたしは。
実際教員試験は受けませんでした。当時は倍率が高すぎて合格する氣がしなかったですし。結局教育業界の営業職が、最初のキャリアになりました。

教員になりたいのも本当だった

食を扱う世界に興味があったのも本当だったけれど
教員という教育者の世界に興味があったのも本当でした。

中学3年生の時におとなの理不尽を味わって「もっと子どもたちの本当にやりたいってことを応援できる教師になる」って思ったんですよ。
そういう先生がいねぇならわたしがなる!ってね(笑)

大学4年生の教育実習で職員会議に参加した時「わたしがやりたい教育はここじゃできないな」って感じて教師になることはやめたわけですが「やりたいを応援できるおとなになる」という氣持ちは残っていて教育業界へ行きました。
その後、人材育成を学びたくて人事職へ就いたわけです。

実際、新卒採用を担当してそれぞれの人生の岐路に立ち会えることはとてもやりがいを感じたし、成果も出していたと思います。
でもね、幸せじゃなかったんですよね。
やりがいのあることは天職に近いとは思うけど
幸せじゃないのは違うよね。
だから東京駅で転んだあの日にやめることを決められたんだと思います。

人事の仕事を辞めてから
ご縁があってレシピ本を出したこと
料理教室を始めたこと
この2つは大きな決断点だったのでしょうね、今思えば。
(そんな大きな決断をした感覚が当時はありませんでした)

この2つがなければ
多分、今のわたしはないです。

レシピ本を出したから料理教室やったわけで
料理教室をやってみたからこそ
おむすびを極めることになったわけですから。

それには長男の存在は大きく影響しています。
わたしは不妊治療をして長男を授かっています。
会社員を辞めてから本格的に治療を始めましたし、長男がお腹に宿ることがなければ人事の仕事を続けていました。
だって続けられましたもん、「できる」から。

だから教員(教育者)になりたいと思っていたわたしもやっぱりわたしなんだな、と思いますし、実際、法人化してから教育に関わる事業はいくつか実行しました。
ただ、成功したものはすごく少ないです(その理由もなんとなくわかりますよね、だって「できる」だったから。)

ただ、長男を育てながら「こう生きたい」と言える子にしたい、
やりたい、を見つけられる子になって欲しい
というのはずっと思っていました。
なのでこの12年は、わたしの信じる教育観を長男にありったけ試してきた期間です(笑)

「こう生きてほしい」は「こう生きたいだった」

「こう生きたい」と言える子にしたい、
やりたい、を見つけられる子になって欲しい
だったらまずわたしがその姿を見せないとね、と12年間、動き続けてきたように思います。

やりたいことやりなさい、選んでいいよ
そんな言葉をかけるより
やりたいと望んだことに全力で臨み挑んでいる姿を見せることが何を言うより伝わる
そう信じて12年関わってきました。

もちろんそれが見つからなくてもがいていた時期もあります。
迷走していた時期もあります。
それも含めて姿を見せてきたと思っています。

だから今回、長男が親元を離れてやりたいことをやる環境を選んだことは
わたしにとってものすごく節目感があります。

幼稚園の先生に長男が合格したことを伝えた時、お手紙をくださったんですね。そこに書いてあったのが
「本人のそれ(やりたいに夢中になること)を支える嶋田家の強さを感じています」だったんですね。

長男の幼稚園の恩師は わたしの恩師でもあるのです * 「ななくんが言いたいことを言えず泣いてしまうのは お母さんの期待を感じているからじゃないですか。」 長男が年長児の時 担任の先生から改めて面談の要望があって 真っ直ぐに言われた言葉...

Posted by 嶋田 佑紀 on Wednesday, January 24, 2024


そう。生きる力って「強さ」なのかもしれません。
やりたい、と言える強さ。
それを本氣で支える強さ。
見つけるまで諦めない強さ。
結局それは「いのちの使い方」を自分で決める強さ。
それが「いのちを生きる」ってこと。

わたしは長男のおかげで、そんな強さを発揮できるようになったし
親にしてもらったからこそ発揮できるようになった部分もあると思っています。

発揮できるようになるプロセスの中でおむすびに出会って
過去の経験とリンクして
わたしの表現方法を見つけることができました。

いのちを生きる、の表現方法が
おむすびの先生だったり
ごはん屋だったり
母親だったり
するだけなんだろうと思います。

だからぶっちゃけ、何やっていてもいいんですよね。


乳児は何があっても肌を離すな。
幼児は肌を離せ、手を離すな。
少年は手を離せ、目を離すな。
青年は目を離せ、心を離すな。

ネイティブアメリカン子育ての教え四訓

14歳まではへその緒がまだ繋がっている、と聞いたことがあります。
とすると、14歳くらいまではまだ少年なのかな。

少年と青年の間を行き来しているような長男との関わり方が大きく変化する時期に来ました。

親を、ひとりのおとなとして見るようにもなってくると思うんですよね。

だからこそ
今まで以上に「いのちを生きる」姿を見せていきたいと思うのと同時に
枠にはまることなく、より誠実に自己表現をしていこうと思います。

彼が悩んだ時、相談相手にもなれる存在であれたらいいなぁ。

手は離れるけれど、愛と誠意を胸に見守っていきます。



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