Puff, the Magic Dragon

 Puff, the Magic Dragonを初めて知ったのは、おそらく小学校低学年の頃、音楽の授業であった。私はこの頃からパフが好きであったが、幼い頃の私は、きっとパフの持つ郷愁的なメロディーと陽気なリズムから成る親しみの錬金術に、まるで魔法をかけられたかのような心地を抱いていたのだろう。だが幼稚な私は、この歌の歌詞を殆ど無視していたのだ。二十五歳になった私が再びパフを聞くと、驚くことに両瞼がいつの間にか濡れていることに気が付いた。私は自らの感情に疑念を抱き、もう一度、パフを初めから聞いてみる。すると自らの瞼が雫を留めている事実を、私は爽やかな気持ちで受け止めることができたのだった。

 私はPuff, the Magic Dragonの詩がとてつもなく好きだ。永遠を所有するドラゴンが、幼い少年との触れ合いで、自らの外にある有限性を痛感し、まるで死の宿命を待つ者のように悲嘆して、過去の思い出を懐かしみながらも、そのかけがえなさのために時間性の儚さを知り、それによって蝕まれた胸奥のしこりと共に、独り寂しく洞穴に入っていく。私達の宿命である哀愁を、幼子でも理解できる程に簡潔に、明確に、私達に教えてくれる詩が他に幾つとあるだろうか。
 例え無限を所有する超生命体でも、時間の有限性を軸とした世界で生きるには、例え神でもその残酷さに逆らうことは不可能であり、むしろ無限的存在者ほど、この有限性が殆どの世界で生きるには過酷なことだろう。
 余談であるが、私の好きな詩に、伊東静雄の「そんなに凝視めるな」がある。私はパフを聞いたとき、この詩をすぐに連想したのだが、この詩にはパフの経験した灰色の夜の悲劇を、いったい私達はどのように向かい合うべきなのか、その有限的世界で生きるための術が、とても美しい日本語で教示されている。その詩から最後の二行を引用する。
 われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
 あゝ 歓びと意志も亦そこにあると知れ

 最後になるが、私がこの曲を最も愛する理由の一つに、恐らくは大いなる共感というものがある。パフの悲しみは、私達の宿命でもある悲しみであるのだ。パフが洞穴に入ったように、私達も記憶を懐かしみ、胸を儚さで染め、まるで、さよならだけが人生であるかのように思え、大きな憂鬱に苦しむ日があるだろう。それでも私達は自殺を選ばない以上、この息をするのさえ苦しくなるような、寂しく残酷な世界で、生きていかなくてはいけないのだ。  
これは私の予想であるが、きっとパフだって、少年との別れの後、何かを悟ったに違いない。なんせ永遠的であろうがそうでなかろうが、存在するものは皆、知っているのだ。悲しみを悟り、心的成長を自覚することで、私達はこの宿命に立ち向かい、何とか生きていくことが可能であるのだと。

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