おかゆメンタルとエッセイのこと

私の毎日の暮らしには、ストレスがとても少ない。

 朝八時に起きて朝食を作る。ゴミを出して会社へ行く夫を見送り、パソコンのスイッチを入れて仕事を始める。十二時なったら昼食を作る。また仕事する。十八時になったら夕食を作り、帰って来た夫と一緒に食べる。一休みしたら風呂に入る。二十三時まで好きなことをして過ごし、眠る。平日はこの繰り返しだ。休日は夫と出かけたり、家でジグソーパズルをして過ごす。半年に一度くらいは、友人と川や海で遊ぶ。こんな生活を続けてもう三年近くなる。それ以前は、飲食店でアルバイトをしたり、会社員として働いてみたりもした。しかし、社会には恐ろしいことが多すぎて、私には耐えられなかった。深夜まで働いても翌朝元気に出社したり、激怒している人を説得したり、とても傷つくことを言われてもヘラヘラ笑ったり。全てが苦しかった。そういったストレスから逃げて、逃げて、逃げ続けて、気が付いたら家の中で文章を書くことを仕事にしていた。

この三年間、日常生活でストレスを感じることがなさすぎて、ストレス耐性が今まで以上になくなってしまった。かつて豆腐くらいのやわらかさだった私のメンタルは、今やおかゆレベルにまでグズグズに脆くなっている。そう確信したのは今から半年ほど前、歯医者に行ったときである。馴染みのおじさん先生に左奥歯の虫歯を削ってもらい、詰め物の型を取ることになった。ひんやりと冷たい、プニプニのかたまりを口に入れられる。これを噛むと歯型が形状記憶されるらしい。「普段食べ物を噛むときと同じように噛んでみてください」と言われたので、ガブッっと噛む。「前歯で噛んじゃってるので、奥歯で噛みましょう」奥歯を意識して、もう一度ガブッ。「だからそうじゃなくて、奥歯で!」まずい、いつも優しい先生がイライラしている。でも何が正解かわからない。普段食べ物を噛むようにって言われても、普段こんなプニプニにかぶりつくことがないから、勝手がわからない。こうだろうか、ガブッ。それともこうか、ガブッ。「……一度、何もない状態で練習してみましょう」先生が私の口からプニプニを取り出して言う。先生の心中はわからないが、呆れられたのだという被害妄想が頭の中で渦巻く。カチカチ、カチカチ。私と先生しかいない静かな部屋に、上下の奥歯を合わせる音が響く。次も上手くできなかったらどうしよう……そう思ったとき、自分の両目から涙がこぼれているのに気が付いた。
 泣いたのである。齢三十一歳にして。歯医者で。しかも虫歯の治療が痛かったからではなく、「おくばがじょうずにつかえないから」という理由で。子供だろうか。
 慌てて涙をぬぐったので、先生が私の落涙に気付いたかどうかはわからない(でも心なしか、その後ちょっぴり優しくなったような気がする)。その後再びプニプニを口に入れて挑戦し、なんとか無事に詰め物の型が取れた。
 歯医者を出たあと、私は激しい自己嫌悪に陥った。予約がいっぱいで忙しい先生の手を煩わせた申し訳なさと、しょうもないことで泣いてしまった恥ずかしさがないまぜになり、壁に頭をガンガンとぶつけたい気分だった。穴があったら入りたい気分だった。いやむしろ、自ら掘ってでも入りたい気分だった。
 ストレスの少ない生活は快適だ。でも、そんな生活に慣れてしまうと、ものすごく些細なことでもストレスを感じるようになってしまう。豆腐メンタル以下の「おかゆメンタル」を強くするにはどうしたらいいのだろう。一度グズグズに煮てしまったお米は、もう自分の足では立てないのだろうか。そんなとりとめのないことを考えながら、トボトボと帰路についた。

 そんな私だが、最近、自分のおかゆメンタルと上手く付き合えるようになった気がする。きっかけは多分、趣味で書きはじめたエッセイだ。いくつか書いてみてわかったことだが、私のエッセイにはある共通したテーマがある。それは、「何をやっても上手くいかない辛さや憤りを、笑いで昇華する」というものだ。嫌だったことについて笑いを交えながら書いていると、だんだん心が軽くなってきて、書き終えた後にはその出来事に感謝の念すら抱いている自分がいる。こうしている今も、歯医者で泣いた恥ずかしさを綴ることで、「私ってしょうがないヤツだなぁエヘヘ」と開き直っているのである。今やエッセイを書くことは、私にとって心のバランスを取るために必要な活動となりつつあるのだ。まだまだ数は少ないが、この活動を続けていれば、恥と笑いがいっぱい詰まった「日本一くだらないエッセイ集」がいつかできるのではないかとワクワクしている。エッセイ集のタイトルは、『人生音痴』なんてどうだろうか。
 そんなことを考えていると、おかゆメンタルも悪くないなと思えてくる。おかゆでもいいじゃないか。脆くてやわらかいから、弱った人の体内にも、すうっと入り込んでいけるのだ。

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