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自分はどこで生きている

先日ニュースの中で、インタビューをされていた就活中の学生が「人の役に立つ仕事がしたい」と言っていて、この言葉って今もけっこう使う人がいるのだなあと思った。

かつては私もこの言葉になんの疑問も持っていなかったのだけれど、この言葉に対し、あるときから「人の役に立たない仕事なんてないよ」という言葉も頻繁に聞くようになった。

言われてみればその通りなのだけれど、そのとき、なぜ私はそのことに違和感をおぼえずに30年くらい生きてきたのだろうと考えた。

「人の役に立つ仕事がしたい」という言葉のニュアンスは、医療や福祉やNPOなどといった機関で、切実・深刻・喫緊・日常的に困っている人に直接関わりたいという趣旨で使われているのだと思う。

「人の役に立つ仕事がしたい」という言葉を日本語として考えてみると、「様々な仕事の中でも、人の役に立つ仕事を選びたい」と解釈できる。

本来、「仕事」と称されるものは必ず誰かの役に立っている。たとえば、今目の前で深刻な状況の人を直接助けることと、なに不自由なく優雅に暮らす人の日常をより快適にするサービスを提供することは、どちらも人の役に立っている。

でも、”日常でより困っている人を直接助ける仕事がしたい”という趣旨で「人の役に立つ仕事がしたい」という言葉が使われることは、今の日本の構造そのものだなあと思し、私もそれを担う一人であったと思う。

「ブラック企業」「パワハラ」「社畜」といった言葉は、ここ数年のあいだに、一般的になったと思う。しかし、もうこんな長時間労働はおかしいんじゃないか、こんな上司はおかしいんじゃないかと言いながら、一方で、少しでも安いものを求め、便利さを求め、正確さや丁寧さを追求するのも、同じ社会に生きる人間だ。

生産者は同時に消費者であり、同じ経済圏の中で、各々の生活と仕事は循環している。自分がただ安い値段だけを追い求めることが、たとえば同じ社会に生きる誰かの、ひいては自身のサービス残業を助長しているのかもしれない。

「店頭で実物を見て説明を聞いて、ネットで一番安い物を買うのが賢い」みたいな言葉と、「人の役に立つ仕事がしたい」という言葉には、両方とも社会の断絶を感じる。

今、働き方改革が叫ばれる中で、実際に全ての会社が完璧に労働基準法を遵守したら全ての物の値段が跳ね上がり、提供できないサービスも格段に増えるという話があるが、ごく単純に考えて当然だ。

事実、今まで当たり前に24時間営業してきたチェーン店が人手不足により営業できなくなってきている。こういった事態はこれからも増えていくと思うし、私たちも過剰に便利すぎた社会から、少しずつ脱却することで、自分の生活も余裕が生まれていくのではないか。物の値段は一時的に上がるはずだけれど、過剰に求められていたクオリティやスピードが是正されたら、だんだん循環として適正な価格にはならないのか。

めちゃくちゃに高速回転していた社会のどこかのペースが落ちたら、こんどはゆるやかに、でも止まることはなく回り続けてほしいなあと思う。自分も常に、循環する社会のどこかにいるんだなと思いながら、ゆるやかに生きやすい時代を願うばかり。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。