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ネットとイメージについてのメモ

人はお酒を飲むと本音を喋るということはよく言うけれど、今ネットが居酒屋みたいな感じがしなくもない。ネットが無ければ聞く機会がなかった人の本音をあまりに聞きすぎている。

テレビはもちろん、内輪の席での発言も、センセーショナルだったらすぐネットに拡散されてしまうので、昔だったら知り得なかった情報が、多くの人の手の届くものになった。もはや自分が一人家で呟く以外の情報は、全てネットに直結する可能性があると言える。

そんなことは分かっていても、誰もが油断してしまう。

それはたぶん、自分がパソコンやスマホに向かって入力する行為、また著名人がもっと公の場所で話す行為にしても、その先にいる、その情報をキャッチし得る何百、何千万の人間の拡散力をいちいち想像することが、やはり難しいからなんだと思う。いくらその仕組みを説明されたとしても。

自分も今この瞬間に、やっぱりそのイメージって難しいよなって自分で思う。

また、一旦拡散されてしまうと、一人一人は気軽にリツイートしたり、「ただ一個人の意見を言っただけです」みたいなつもりでいても、嘘を拡散していたり、罪のない人や、そこまで咎められなくてもいいような人を、命の危険があるようなところまで追い詰めてしまったりもする。

もうこれはコンピュータのプログラムのように、センセーショナルな情報が一度放たれたら、今の社会には、もう誰も止める術を持たないのだ。使っているのは人間なのに。いや、人間だからと言えるのか。

でも、想定してなかった形で人の本音が聞けることにもすごく意味があって、たとえば今公の場で「戦争するべき」と言う政治家がいるんだという事実は知ることができてよかったし、それに対する様々な人の反応も知ることができてよかった。とても想像ができなかったので。

いま話題の見城徹さんのツイートと、それに対する一連の反応も、単純な批判だけではなくて、出版社とはどうあるべきか、いまの社会で作家にはいろいろな手段があるんじゃないかとか、そういう議論のきっかけになっているという点において、は、いいことのような気がする。

身近な人間関係においても、ネットがなかったら知り得なかったその人の一面や情報を知る機会がすごく増えた。良いことも残念なこともあったりする。自分も気づかないうちに人をがっかりさせていたり不快にさせていることもあると思う。

まあ私もだいたい油断しているよなあと思う。でも、これを言ったら無名の私でも誰かにみつけられて絶対炎上するよなあみたいな意見も持っていたりする。大丈夫そうなラインはいちおう考えている。

たぶんみんなそういうラインについては考えているのだと思うけれど、目に見えないものの距離感はどうしてもつかみづらいのだ。

津田大介さんが、人類にネットは早すぎたとつぶやいていたけれど、そんな気もするけれど、もう手に入れてしまったのでこの社会で生きていくしかない。

情報の調整が、生きやすさのひとつの鍵なんだろうけれど、永久に高度な技だなあと思う。

いろいろな方にインタビューをして、それをフリーマガジンにまとめて自費で発行しています。サポートをいただけたら、次回の取材とマガジン作成の費用に使わせていただきます。