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おいしくできなかった料理をおいしくできちゃう母親たちの魔法を、自分も使えるようになった話

朝に作ったトマトチャーハンがあんまりうまくいかなかった。ケチャップとトマト缶を混ぜたのが良くなかったのか、水分量が足りなかったのか。わからないけれど、なんだかパサパサしてしまっていた。

夜家に帰ってきて冷蔵庫を開けると、1.5人前分くらいの朝に作ったチャーハンがあった。なんとかせねば。
大きなフライパンにオリーブオイルをひき、ニンニクとローズマリーを入れて熱する。いいころ加減に焼けてきたらトマト缶と塩を入れて煮込む。しかし野菜が足りないな、と今更気がついて、隣のフライパンでカブの実を薄く切ったのを塩とオリーブオイルで炒める。

カブがおいしくなったところで、大きなフライパンにカブと朝のチャーハンを全て入れて混ぜた。味見をすると、何か物足りない。どうしようかと思って再び冷蔵庫を開けると、ジェノベーゼソースが入っていた。これだ。2さじくらいいれてまぜ、さらに塩とチーズを加えるとめちゃくちゃ美味しいドリアができてしまった。

うまくいかなかった料理を、自分でなんとかすることができた。

前は、もちろんそんなことはできなかった。料理や食べることは好きだったけれど、だからこそたまに作る料理は創意工夫を凝らしすぎて失敗することもあった。
小学生くらいの頃、ある休日にオレンジ風味のクレープを作ろうとして、どうにもうまくいかなくなったことがあった。焼いてもふわっとならず、グニグニして焦げつきそうになってしまう。母はそれを見て、
「ホットケーキにしてもいい?」
と私に聞いた。絶望していた私が頷くと、母は小麦粉やなんかを目分量で入れてサッとまぜた。数分後にはおいしいおいしいホットケーキが出来上がっていた。

母は料理がうまい。しかし母も娘時代は失敗することがあったようで、カレーを作ったらどうにも美味しくできなかったことがあるらしい。そんな時に母の母はそのカレーを一口食べると
「ん?」
と言って、さっと調味料を入れて瞬く間に美味しいカレーにしてくれたと言う。

きっと、やった側は覚えていないのだ。母も私にしたことを忘れていたし、祖母も母にしたことを忘れただろう。でもやられた側は覚えている。母という存在の偉大さを覚えている。

自分は自分にやっただけだけれども、母たちに近づいた気がした。それは嬉しくもあり、なんだか切なくもあった。そうか、私は料理ができるようになったのだ。今だって実際はすねををかじっている身だけれど、急に母の手を離れたような気がして、涙が出そうになった。自分も誰かのお母さんになるかもしれないという心細さと安定感は、年々現実味と非現実味のどちらも濃くなってきている。

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