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僕らと子供たちは今をどう生きるのか

はじめに


皆さん、こんにちは、あるいはこんばんは。ひかっちゃです。今回のブログタイトルは、『僕らと子供たちは今をどう生きるのか』とつけさせていただききました。このテーマにした理由は、自分自身が19歳で最後の10代の年であり、まだ酒も飲めないガキだということと、とは言っても成人はしているということで、中立のような立場にあるため、なかなか面白い視点から記事を書けそうだと判断したからです。今回は、法的に子供とされる方達、つまり、未成年にフォーカスしていこうと思います。今までの記事で書いてきたような「子供」と比べると、少し年代が上になってくる方達についても書いていきます。これからの子供の苦悩や、羨ましい点、それに伴った僕らの生き方などに関する答えを感じ取ってもらえるような記事に仕上げていますので、僕の敬愛する人生の先輩方のお力添えになれば幸いです。

いつもふざけている僕ですが、うらっちゃとともに、たまにはふざけず真面目に書いてみようと思います。なんだか自分で書いててむず痒くなってきますが、頑張ります。(本当に大丈夫か?これ)

今回は少し重めの内容になってしまって申し訳ないのですが、皆さんとともに、子供たちに関する問題に目を向けることができればとの思いから、この記事は書かせていただきます。(よろしくなー)








子供たち(未成年)を知ろう


では、はじめに彼ら、彼女ら(ついでに自分)について知りましょう。知りましょうと言っても、これは皆さん知っていることでもありますよね。この世に生まれた者なら誰もが通る道です。そんな時代もあったなぁと懐かしい気持ちになりますね(笑)。

誰もが通る道

先ほども言いましたが、この記事を読んでいる方々にもかわいい時期がありました。そんな昔のことを振り返っていると、あのときは好奇心旺盛だったなぁとか、すごい元気だったなぁとか、はたまた楽だったなぁなんて思う人もいるでしょう。あながち間違ってはいないと思います。そして、「その頃の自分」と「の自分」は大きく変わっていますよね。言うなれば、彼ら、彼女らは「その頃の自分」にあたります。パワフルで、どこか危なっかしい感じを見ていると、飽きや時間を忘れさせてくれるし、なにより愛おしくって仕方ないですよね。なんで子どもの頃のまま大人になることができないのだろう。そんな問いを一度はもった方が多いのではないでしょうか。その答えは皆さん自身もだいたいわかっていると思います。それが正解です。なぜなら、あなた自身がそれらの理由で変わったのだろうから。なので、その考えを否定する気はないですし、僕の考えを押し通すつもりもありませんが、一応記事を書いている身として意見を書くので、参考程度に読んでいってください。

僕の思う理由は主に二つです。

社会が大人への変化を強要している

一つ目が、社会が子供で居続けることを拒んでいないか、というものです。これに関しては、仕方ない面もあると思いますが、誰もが納得していただける理由ではないでしょうか。大人にならないといけないことぐらい誰だって
わかっているとは思います。しかし、「なる」のと「ならせられる」のでは雲泥の差があると思いませんか。失敗から学ぶことが多かった昔の時代に比べると、今は失敗することすら許されない時代になったと思います。それはSNSなどの普及に伴って失敗が拡散されてしまうようになったことが大きいです。いつどこでスマホを向けられているかわからないこの世の中で、子供たちはどう失敗すれば良いのでしょうか。たくさん怒られて自ら学び、育ってきた世代と、失敗をする前からあれはダメ、これはダメと考える必要に追われる世代とでは、チャレンジすることへのハードルが変わってくると思います。僕はこのようにしれっと成長を強要されていることに少し危機感を覚えます。子供には過度にストレスを感じることないよう、のびのび育っていって欲しいものです。


知らぬ間に理想の大人に憧れてしまっている

次は、理想の大人に憧れているという内容なのですが、これもまぁ大した理由ではなくて、単純に今の自分では得られないものを欲しがったり、自分にはない部分を羨ましがったりするのとなんら変わりない、人間によく見られるあの現象です。今でこそ子供の頃に戻りたいと思うこともあると思いますが、子供の頃にこのままがいいと思っていた人って少ないと思います。僕の周りの子は口を揃えて早く大人になりたいと言っていました。でもこれって子供に対して見栄を張っている大人に憧れているだけなんですよね。自分より遥かに若い子に弱い一面を見せる人なんて、普通に考えればいるはずがありません。この無限ループが昔から現代まで、そしてこれからも続いていくのだろうと思います。そんな偽りの大人に憧れた子供の目が辛い、、、。

これら二つの理由は、子供が大人にならざるを得ない理由のほんの一部に過ぎないかもしれませんが、今の子達はこんな感じなんだろうなと勝手に決めつけています。(仮説を立てることは大事っす)おー珍しく肯定的だね、うらっちゃ。まぁこればっかりは子供たちに聞いてもわからないことなので、あくまで仮説にはなってしまうのですが、全くの検討はずれではないと自負しておりますので、そういう可能性もあるよなぐらいの感覚で頭の片隅にでも入れておいてください。


子供が人生に幕を閉じる判断をしていいの?


ここから少し辛い内容になります。まず初めに、文部科学省がPDFファイルとしてネット上に掲載している『子どもの自殺の実態』というものを添付しておきます。一度目をお通しください。少しデータが古いものになっていますが、子供の自殺の実態を把握するには十分な資料となっております。

https://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2009/04/13/1259190_4.pdf

今ではリストカットと言って、カッターなどで自傷行為を行うことを指す言葉なんかもありますよね。そのような経験を持つ方は、その後の自殺率も高くなってくるそうです。明らかに身体的外傷などの異変があっても、実際には助けれないことも多いそうです。しかし、このようなある種SOSとも取れる行為を見てもなお、手を差し伸べることができない人が多いというわけでもないんですね。そもそも傷跡がわからなかったり、助けたいとは思っていてもどう手を差し伸べればいいのかわからず、最終的に後悔し、自分を責めるような悪循環に陥っていたりするそうです。そして、中高生などのいわゆる青年期というものに属する方たちは、他人の死の影響を受けやすいそうで、自殺が連鎖することもしばしば、これもメディアの成長がもたらした弊害と言えるでしょう。学校側も問題だと認識はしていても、教員側で自殺についての教育に抵抗がある方が多かったり、このように連鎖してしまう可能性を考慮し、自殺についての教育を躊躇うことになったりしているのが現状だそうです。

なぜ子供がそこまで追い詰められるのか。正直僕はこの状況を知って悲しくなりました。ここまでとは認識してませんでした。しかし、こうなってしまったのにも必ず理由はあります。僕が一つ挙げるとすれば、対面での会話の軽視がこのような結果を生んでいる可能性です。これは普通の会話もそうですが、近年の子は話しにくいことを対面して相談せず、匿名のSNSに逃げる傾向があると感じました。会わなくても会話ができるようになったことで、自然と対面する機会自体が減ったり、そもそもそこまで深刻な話が出来るような相手がいないのではないか。そう思うことが多々あります。そして、このSNSに逃げるというのは、一人で抱え込むより危険な可能性があることを僕たちは知っている必要があります。どこの誰かもわからない、関係値0の人への相談は、場合によっては簡単に死者を出すのです。初めてこのことを知った時はものすごく胸糞悪くなりましたが、事実、世の中には人を死へ誘導するような奴がいるのです。また、過去には見ず知らずの人がネット上でつながり、命を断つような、「ネット心中」を止めようとしてグループに加わった方が亡くなってしまったケースもあります。それほどネットは危険だということを僕たちは再認識する必要がありますね。(便利なだけじゃないことを自覚しないといけないね)


とは言いつつ最近の子は恵まれているよねって話


あんなに重い話をした後に真逆のことを言うのも気が引けますが、悪いことばかりではないのも事実、例えば、スマホの登場により、ネットにアクセスする際のハードルが下がったのは大きな利点です。スマホは携帯電話として売られていますが、一昔前から考えると、みんながパソコンを持っているようなものでしょう。このような機器の登場によりグローバル化が進んだのも否めません。そして、今は小学生がmyスマホを持っていたりします。教育においても少しずつICTが取り入れられ、学びたいものを学びやすくなったのか、年齢的なマウントを取れないことが増えたと思います。(子供だからって馬鹿にできないような子も増えたよなー)確かに、そうだね。また、起業もしやすくなり、学生社長なんて方がいたりしますよね。昔と比べれば娯楽もものすごく増えたのだろうと思います。毒と薬は紙一重と言われますが、これらをどう用いるのか、これこそがこれからの子供たちに課せられる大きな課題でしょう。危険だからと言ってすべて子供から取り上げてしまうのは違うと思うからです。僕たちにできることはなんなのか、一度考える必要があると感じます。


おまけ なぜ人は成長するのか


おまけ程度に人の成長について書かせていただきます。ここから先はタイトルから飛躍した内容になっていますので、注意してください。子どもから大人になった皆さんが、さらに次のステップへと足を踏み出せるよう、僕が思いを込めて書いたメッセージとして受け取っていただければ幸いです。


本来、人の成長は自由の象徴であるべきです。決して強要されるものではなく、各々が自由に自分をカスタマイズしていいはずです。そんな自由が、今の世の中では失われていると思います。近年、多様性という言葉をよく聞きますが、多様性ってなんなんだろうと考えさせられてしまいます。確かに同じような人ばかりだと、単純に扱うのが楽だと思います。しかし、AI技術も進歩している今、本当に大事なことは、なりたい自分を目指すことです。消去法などで選択肢を絞っていくのはやめましょう。「みんなと違う道に進みたいから僕・私はこっちに行こうかな。」ではなく、例え同じ道に進む人が多くても、本当に進みたいなら進むべきです。その先の差別化などいくらでも可能ですし、そもそも全く同じになることなんて不可能です。ジムに行っても体が大きくなるわけではないし、同じ筋トレをしたからってみんなが同じ体になることなんて不可能ですよね。それと一緒です。(は?)

僕の思う多様性は、みんながなりたいものになることです。その結果同じような人が増えてしまう分には一向に構いません。ただ、なりたくもない者になるための努力をしてほしくないだけです。その点、人の成長はなりたい者になるために与えられた自由な権利だと言えるでしょう。

皆さんがこの先の成長で夢を掴みとることができるよう祈っております。


まとめ

今回は、この先生きる上で忘れてはいけないことを書いてみました。皆さんには、僕の書いたことが全てではないことぐらい理解していただけていると思いますが、念の為言っておくと、この記事に書いてあった内容は別に覚える必要はありません。把握しておいて欲しいことは、子供も大変なんだということだけです。その説明のために具体例などを挙げましたが、僕が言いたいのはそのような細かいところではないと言うことです。また、だからと言って、「子供のことは大人が守るべきだ。」なんてことも言いません。別に子供は大人に守られるべき存在でもないですし、大人も子供を守るべき存在ではないのです。大切なのは互いに寄り添うこと、子供も大人も、どちらも欠かせない存在であることを理解した上で、手を取り合っていきましょう。


これなんや