心臓を刺すものは思考
私が自分自身のことを愛せる日は来るのだろうか。
幸せでいても絶望していてもどこか罪悪感があって、自分がどんな状況であっても他人を不快にしたり嫌われているのだろうなと思うと生きるのをやめたくなってしまう。
全人類に好かれることなど不可能で、自分がどんな人間でも好いてもらおうなんて到底烏滸がましい話なのに、どうしてこうも私は他人ひとりひとりを意識してしまうのだろう。
大切な人間に愛され、大切な友人が居て、自分を信頼してくれている猫が居て、それの何が不満だというのだ。
幸せだと思えない自分に辟易とするし、SNSに幸せなことを書き込む時もいつも通りのネガツイをする時も、「ああ、このポストで誰かが不幸になるのかな」と思ってしまう。嫌な気持ちになるのかな、と。
他人に干渉しない自分になりたい。
存在していることがもう苦痛だ。
私が悲しむと心配して一緒に悲しむ人も、私が幸せだと妬ましく思って苦しい人も、みんなみんな幸せで居て欲しくて、私が誰かの感情のきっかけになりたくない。
この歳になって、あまりにたくさんの月日を生きてきてしまったことを客観的に見て驚いてしまう。
こんなにも死にたいのにどうして生きているんだろう。
私は生きていたいのだろうか。
無職であることが近頃私の凶器だ。
私の心臓をグサグサと刺す。あるいはきつく締め上げるロープかもしれない。
どうにか自分を肯定したくて求人を見るが、その時間がすでに苦しくなってページを閉じてしまう。そんな自分を甘えだと思ってしまう。どんどんと自分を嫌いになっていく。
私の周りの人間は優しいので、働けとは言わないが、こんな人間が身近に居て情けない気持ちや恥ずかしい気持ち、ましてや憎らしくなったりしないのだろうか。私は自分が憎くて憎くてたまらない。
今日は病院の予定だったが行けなかった。
準備をしなければいけない時間が近づくたびに心が拒否して唸り声しか出なかった。
病院に行っても、「現状維持で」と言われるだけ。先生にはうまく話せないし、私のことを理解してくれるわけでもない。大きな病院がゆえに主治医はころころ変わるし、私をただの物静かな人間だと思っていることだろう。
これから先、寛解する未来が見えずに絶望して、パートナーに話しているうちにボロボロと涙が出た。泣いている時も、考えることは「こんな不細工に泣いて、気持ち悪いと思われているだろうな」とか「また病院に代わりに行かせるなんて迷惑しかかけられない」とか、ネガティブなことばかりだった。そうして本当にパートナーに病院に行ってもらって、私は家に残った。
少しでも罪悪感を減らしたくて部屋の片付けをした。いつもよりは頑張ったし、デスクにキーボードを置けるスペースはできた。自分を肯定したくて「えらい」と言いがちだが、心はそれを受け入れられない。近頃は何をしても満足しない。自分を褒めることができない。
言葉で言うのは簡単だ。元気に見せることも簡単だ。「大丈夫だよ」と笑うことも、陽気に見せることも。
だからわざと言ってみせる。「なこちゃんはえらい!」。脳がバグって本当にそう思えないかな、と願う。でも私の心は自分を許さない。
このまま一生こうだったらどうしよう。
そう言うと「そんなことないよ。何年か前のなこちゃんとは確実に変わってるでしょ」と言われる。確かにそうだ。変わっている。
何もできなかった日々。寝て、薬飲んで、意識もおぼろでちゃんと歩けず、記憶もない。そんな日々とは違う。
でもじゃあ成長してる?悪化はしてない?
そう考えると怖くなる。昔は毎日料理してたよね?働いてたよね?早起きして、お弁当持って、学校やら職場に行っていたよね?
今の自分が正解に思えない。成長しているようにも、寛解に近づいているようにも思えない。
自分として生まれたことが気持ち悪い。
自分という存在が気持ち悪い。
こういう思考も、行動も、何もかも憎くて、これが自分だと認識するとぞっとする。できるだけ考えずに生きたい。思考をぼーっとさせたまま、特に何も考えずに生きたい。
自分を愛したいとか、幸せだと感じたいとか、そんな願いよりもやっぱり 早く死にたいんだよなあ。
でも、でも、どうにもこうにもパートナーと猫が愛しい。
そして私を愛してくれる人々が、どうしても 愛しいんだよなあ、
生きづらい。
全くもって私に何もなかったら死ねたのに。
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