見出し画像

疲れも悩みもなくなってないけれど、今日もがんばろう

あぁ、今月に入って慌ただしく日々がすぎ、ほんと目が回るような毎日だった。

義母が手を骨折し、たまにちょっとした合間に子供を預けるという選択肢も取れなくなり、わずかながら、義母の介助もしたりして。その上、夫まで体調を崩したため、育児の戦力ならず。

こういうとき、心配よりも「本当に迷惑なんだけど〜!!!」と叫びたくなる。

特に週末は、やっと少しは休めるか?と思ってたのに、寝室で寝る夫。疲労と孤独感で絶望でした、私。

でも私こうやって見てみると、まあ高頻度でメンタルもやられてるな〜と気づく。

「久々の気づきをまとめるぞ!」と意気込んだものの、「 一週間前にも同じようなことおもってるじゃん〜」と(笑)体感値としては、メンタルダウンは一ヶ月に1回くらいかな、って思ってたけど、2〜3回くらいかしら・・・。

でも働いてる時とちがい、"土日がオフ日"という確かなものでもない。しんどいピークが週末にくることもあるし、週中にママ友にあって回復することもある。育休中は人と会うのが私にとって何よりの息抜きだ。


12人産んだ助産師HISAKOさんのネット記事を読んで、とにかく楽しめるような子育てをしたいと改めて思った。あれだけ、自己啓発的には“楽しいと楽は違う。楽ではなく、楽しい、へ”と戒めのように言い聞かせてきたけど、今は声を大にして言う。『わたしは楽したいんだ〜!!!』
自分で自分を客観的にみても、めちゃくちゃ"正しい"育児家事をしてると思う。でも、その中には“したいこと”もあれば、“したほうがいいんだろうな”程度のものもたくさんあって。

毎日手作りのご飯、離乳食。
水まわりを毎日こまめに掃除。
夫の帰宅までに洗濯物をたたんでおく。
午前と午後のお散歩。
子供と遊ぶ
・・・

昨日は感情的にならずに夫と話せたのだけど、今の自分はどこを手を抜いていいかわからない、と。例えば、今は毎日最後にお風呂に入るわたしが、お風呂から上がったら排水溝と水切り、の簡易的な掃除をしている。その後、洗面所も軽く拭き掃除をし、排水溝も綺麗にしている。これは、自分にとって排水溝の髪の毛を取ったり、黒カビを見るのがストレスだったからで、毎日少しずつ掃除をしたほうがそのストレスを回避できると思ったから。しかし、毎日この掃除で+10分取られているのと、風呂掃除がそもそも好きでないのでやっぱりストレスには感じている。かといって、これをやめたらまた汚いお風呂場を見ることになるし・・と辞める決心もつかない。

以前ある人が、子供が小さいうち、つまり保育である間は自分じゃなくても代わりの誰かに頼れるものが多いけど、子供が大きくなると親じゃないと解決できないから、そっちの悩みの方が大変、といっていたのが印象的だった。ご飯の介助、食事の準備、送り迎えなどは、シッターさんやじいじばあばにお願いできるけど、子供の友人関係、進路の悩みなどは代わりの誰かにはお願いできないよね、と。そう聞いて、これから先永遠に親としても生きる自分にとって、今の辛さっていうのは大したものじゃないな、と一瞬思えた。大したものにしなくていい、というか。

でも、そうはいっても、渦中にいるので今は辛くてしんどい。体力的にも精神的にも。何をどうしたら、解決するのか、日々のやっていることを頭の中に羅列しているけど、今いちしっくりきていない。とりあえず言えるのは、自分のリフレッシュタイムが必要、ということ。そしてそのリフレッシュタイムは、誰かと一緒にいて、誰かと話し、誰かと一緒に感じる時間がベスト、ということ。もちろん一人でゆっくりする時間も欲しいんだけど、自分にとってはやっぱり、友人や家族やそのへんで知り合った大人の人と会話することが何よりも息抜きになる。



先週末は、疲れが蓄積し、「もう無理・・」と心が麻痺していたところにたまたま、両親が遊びにきてくれた。里帰り出産の時はあれほど、冷めた心で自分の母親を見てしまったのだけど、今回はあまりの辛さに母親に泣きつく始末。あー自分は“子供”だなあと思ったと同時に、なんだかんだで、母親のことは“母親”なんだなあ、と、ほっとするとも嬉しいとも言えない、不思議な感情になった。結婚するまでは親を含めた自分の家族は、「これが家族だよね」(家族を母親、父親、などに置き換え可)という、正解というか理想というか、つまり自分の価値観の根底にあるものだった。それが、結婚し、特に里帰り出産を経て、自分の家の“不完全さ”が目につくようになってしまって、理不尽にも色んな人を責める気持ちがむくむくと湧いてきてしまったのだ。そしてそれは特に母親に向けられていて。

「お母さんはあの時、こうしてくれなかった」
「他のお母さんは、こんなにもこうしてくれたのに、ああしてくれたのに」
「親なのに、その発言は人としての手本になるようなものじゃないよね」
「なんでうちの母親は・・」
・・・


出発地点が、自己肯定感が低く、「人としてこんなんじゃダメだ、なんでもっと優しく、理性的で、・・・なんでもっと○○じゃなかったんだろう」と、自分を責めていたわたし。とにかく変わりたかった。いい人間になりたかった。そんな自分は、出産し親になったら、完璧な人間になれるはず、ならねば、と思っていた。親になったら変われる、もっといい人間になれる。でも、事実、そんなことはなかった。

こんなにも可愛い我が子を目の前にしても、イライラしたり、苦手な人は苦手で萎縮しちゃうし、頭では理解してても家族に対しつっけんどんに接してしまったり。こんなにも自分よりも大切なものができても、人間変わらないのか、ということにある意味で良い諦めが最近ついてきて。「結局、わたしはわたしなんだ」と、どんな負の感情を抱いた後にもそう受け止める自分がいた。
そして、その気持ちは、出産から今を経て、自分の親に対し「親も完璧じゃなくて、良い時もダメな時もあるよね、それは仕方ないか」「完璧ではないけど、でもそれでも結局心の拠り所の一部は、間違いなく親なんだ」という気持ちが、輪郭を持ってきたような気がしている。
どんな人も、長所と短所があって、どれが良いとか正しいとか絶対的なものではなくて。上下関係でもなくて。実のところ、最近は義母の方が実母よりも話しやすいと感じたり、義母の方がわたしのことを思い遣ってくれてる、義母は誰かを支えてケアする献身的な人・・と思いながら、実母を比較し低く見ていたところがあった。お母さん、ごめん。

でも、今回両親が来てくれていろいろ話を聞いて褒めてくれて、自分の心にあったわだかまりがほぐれていった。白黒つけたがる性格だった自分、完璧で正しくあらねば、と思っていた自分が少しずつ曖昧さを受け止めつつある。

疲れは取れていない。悩みもなくなってない。
今日からまたどうして行こうか、と不安がある。
あれもこれもやらないと、とか、仕事復帰するまでにもっと自分が気づいた大切なことをまとめたい、とか焦っている。
でも、こういうことで焦ったり不安になって、時々泣いてしまう自分も自分、と思えるだけで、ほんの少し楽になる。こういう自分を嫌になったり責めていた過去のわたし、さようなら。

自分で自分を受け止めてあげよう。まずは、そこからだ。
どんな自分も、それが自分。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?