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哲学カフェの参加録~テーマ「偽善」・その2~


はじめに

 以前書いていた、1月27日(土)夜の哲学カフェ振り返りの続きを書いていこうと思う。

 この日のテーマは「偽善」であった。多額の寄付を行った有名人に対する「偽善だ」「売名行為だ」というコメントを目にする。通りすがりの人に道案内をした後に、「今のって偽善だったのかな」と心を痛める——このように、必ずしも身近ではないけれど、生きていればしばしば遭遇する「偽善」について、時間を取って、みんなで考えたわけである。

 「振り返りその1」では、哲学カフェで挙がった「偽善」の具体例を紹介したうえで、「偽善」とは何か、ある行為を「偽善」と呼ぶとき僕らは何を問題にしているのかについて検討した。結論だけ再掲しよう。

 ある人が社会貢献や慈善活動などの〈良いこと〉をする時に、自分が称賛されたり表彰されたりすることや、外から与えられた規範に忠実であることや、自分勝手な善を実現することなど、〈相手のため以外のこと〉を優先している(ように見える)時、その行為は「偽善」と呼ばれる。

 このまとめのポイントは2つある。1つは、ある行為が「偽善」か否かという時に問題になっているのは、行為の結果ではなく行為の動機であるということ。もう1つは、より詳しく言うと、その行為をするに当たり、〈相手のためを思う〉こととそれ以外のことのどちらを優先しているかが、「善」と「偽善」を分ける基準になるということだ(結論に至るまでの経緯が気になるという方は、以下の記事に目を通してみてください)。

 さて、「偽善」とは何かという本丸の話が終わったので、今回は哲学カフェ中のやり取りから、各論的なトピックを幾つか取り上げていこうと思う。「各論」というと、本筋以外の雑多な話と思われるかもしれない。しかし、各論も各論で興味深い内容になっているので、目を通していただけると幸いである。

◆4.なぜ第三者が「偽善だ!」と言うのか

 まず、ある行為に対して直接関係のない第三者が「偽善だ!」と指摘するのはなぜなのか、ということを考えてみよう。

 「はじめに」でも触れたように、僕らが「偽善」という言葉に出会う典型的な場面のひとつに、災害支援などで多額の寄付を行った有名人に対して、「偽善だ」「売名行為だ」というコメントが寄せられる時が挙げられる。ここで多額の寄付を「偽善」と呼んでいる人の多くは、寄付を受ける人でもなければ、まして寄付を行った当人でもなく、そのやり取りとは直接関係を持たない第三者である。

 この例に限らず、ある行為を「偽善だ」と指摘するのは、往々にして第三者のように思われる。しかし考えてみれば、無関係の第三者ほど「偽善だ」と言いたがるのは不思議である。なぜこのようなことが起きるのだろうか。

 ここからはほぼ持論になるが、第三者による「偽善だ」という指摘——というよりむしろ非難——の根底にあるのは、多額の寄付のように称賛される行為をした人に対する嫉妬だと思う。更に言ってしまえば、行為者に対する嫉妬の醜さを覆い隠すために、行為者を悪者に仕立て上げるべく「偽善」という言葉が持ち出されているのだと思う。

 困っている人に多額の寄付をした人は称賛の的になる。一方、寄付をしない人、寄付をしたとしても有名人ほどの財力のない人は、称賛されにくい。困りごとに対する貢献度から言って、それは当然のことだ。

 ところが、世の中にはそこで割り切れず、「あいつだけ目立ってズルい」「称賛されてズルい」と感じる人がいる。そして、称賛されている人を貶めようと考える。そこで持ち出されるのが、「あの人は本当に困っている人のことを思っていたのではなく、『自分は良いことをしてますよ』というアピールのために寄付をしたのだ」というロジックである。〈相手のためを思っていたわけではない〉と、行為者の動機を作り上げ、その行為を「偽善」にしてしまうのだ。
 
つまり、「偽善」を指摘することではなく、はじめから行為者の評価を下げることが目的なのである。「偽善」は非難のために持ち出される、後付けのストーリーに過ぎない。

 寄付以外の行為でも、同じことが起こり得る。道に迷っている人を目的地まで案内した人に対して、それを目撃した知り合いが「ただ褒められたかっただけだろ」と絡んでくるとき、知り合いの心に渦巻いているのは「あいつだけ良い奴になりやがって」という妬みである。

 もっとも、「偽善」を指摘する第三者が全員嫉妬に身をやつしているというのは言い過ぎだと思う。例えば、特定のキーワードを入れて検索すると、その回数に応じて募金が行われるというシステムがある。あのシステムを前にした時、「そりゃあ検索した方がいいんだろうけど、特に相手のためを思っているわけでなくても手軽に良いことができてしまうのってどうなの?」という疑問が湧くことがある。善意がシステムによって代替されることへの違和感とでも言えばいいだろうか。この場合は、検索をして寄付を行った人に嫉妬しているわけではなく、善意の有無を問わずに済ませる仕組みに対して疑問を投げかけていると言っていいだろう。

 とはいえ、〈良いこと〉をした人に対する嫉妬から、相手を貶めるために「偽善」を持ち出す例も、きっとあるはずだと思う。——これを書き始めて間もなく、僕は自分のやっていることが、有名人たちを「偽善だ」と貶めている(ことになっている)人と同じ、〈他人の心という、本当はどうなっているのは分からないものを、勝手に想像して非難する行為〉だと気付き、少なからず心が痛んだ。ただ、人は往々にしてそういうことをやってしまうものだし、そんな良くないことをやるに当たって、精一杯「自分は悪くない」と見せようとするような浅ましさまで持っているという考えは変わらない。

 ちなみに、哲学カフェの中で「大谷翔平クラスの人が寄付をすると、『偽善だ』って言う人いませんよね」という発言があった。「偽善」叩きの正体が嫉妬だとすると、これも説明がつく。嫉妬は自分と対等な立場か、手が届きそうなくらいのところにいる相手にしか湧かない感情だと言われている。歴史的偉業を成し遂げたスーパースターは嫉妬の対象にならないから、「偽善」叩きを免れるのだろう。

◆5.「仕事」は「偽善」ではないのか

 続いて、「仕事」は「偽善」ではないのかという問いを考えてみよう。この問いは哲学カフェの後半で出てきたものだが、正直に言って全く予想していなかった。

 問いの趣旨はこういうことだ——人が何か〈良いこと〉をする時に、相手のためを思う以外のことが優先されると、その行為は「偽善」になる。ここで、僕らが普段行っている「仕事」を見てみると、それはモノやサービスを生み出すことで社会に貢献する行為であると同時に、労働の対価を得て自分の利益を上げることを目指す行為である。すると「仕事」も「偽善」なのではないかという疑問が湧いてくる。しかし、「仕事」を「偽善」と呼ぶ人はいない。これはどうしてだろうか。

 この問いに対し、哲学カフェの中で返されたのは、次のような答えだった——現代社会において、モノやサービスを提供し、対価を得て事業を運営する「仕事」の一連の流れは、システムとして確立されており、僕らは普段それを善悪という基準で評価していない。不祥事などの悪が生じた場合に告発することはあろうが、善を積極的に持ち上げることは極めて少ない。このように善悪の判断が広くストップされている以上、それが「偽善」かどうかを問うこともなくなるのではないか。

 ちょっとズルい答えかもしれない。だが、直感には合致すると思う。

 そもそも、システムや習慣が確立されているということは、それらが良し悪しを都度問われることなく円滑に回っているということを意味している。一歩引いた視点で見れば、僕らはそのシステムや習慣を、「とりあえず良いもの」とみなしているということになるのだろうが、直感ベースで語るなら「深く考えていない」というほうがしっくりくる。考えることがない以上、それが善か悪か、はたまた「偽善」かは、差し当たり問題にはならない。

 そして、この答えは次のことを示唆している。「偽善」か否かが問題にされる行為、というより善悪が明確に問われる行為は、システムや習慣の外側にあるということだ。実際、被災地に対する寄付は災害という「非常事態」に伴う行為だし、迷っている人に道を教えたり、倒れた人を見かけて救急車を呼んだりすることも、それほど頻繁にあることではない。

 こうして、僕らは期せずして、「偽善」が問われるための前提条件を掘り当てたのであった。

◆6.「悪」と「偽善」はどう違うのか

 さて、善・悪・偽善という3つの言葉が出揃ったところで、「悪」と「偽善」はどう違うのかという問題を考えてみよう。

 「善」と「偽善」の違いについては「振り返りその1」で検討した。〈良いこと〉をしようとしている時に、相手を思う気持ちが優先されているか、他の動機が優先されているかが、その違いであった。

 では、「悪」と「偽善」はどう違うのだろう。「偽善」という言葉は往々にして悪い意味で使われる。哲学カフェでも、「偽善」がネガティブな意味を含む言葉であることを踏まえたうえで、「偽善」と「悪」の境目が気になるという意見が出た。

 これに対し、哲学カフェの中では、「偽善」は「善」との比較で問題になるのであって、「悪」とは明確に区分されるという返答が相次いだ。「善」と「偽善」の間にあるのは動機の差だが、「偽善」と「悪」の間にはもっと大きな隔たりがあるというわけだ。この見方は基本的に正しいと僕は思う。

 ただ、その隔たりの正体に関する議論は特になかった。そこで、哲学カフェで実際に出た悪徳セールスの具体例を用いて、「偽善」と「悪」との隔たりの正体を見極めてみようと思う。あるセールスマンが、実際には何の効能もない布団を、「この布団で寝れば健康が増す」と偽って売りつける。買った人はその布団に効能があると信じ、「確かに体調が良くなった」と確信している、という例だ。

 この例は元々「偽善」に当たるかどうかを議論するために出されたものだった。が、僕が思うに、これは明らかに「悪」である。相手を騙して利益を得ようとするセールスマンの行為は、たとえ買い手が布団の効能を信じて幸せになったとしても、許されることではない。

 この判断において、「悪」と「偽善」を分けるポイントになったのが行為の結果でないことは明らかだ。では、行為の動機がポイントだったのだろうか。しかし、相手のためを思う気持ちが先に立っていない点で「悪」と「偽善」に変わるところはない。となると、何が違うのか。

 結論を書いてしまうと、〈良いこと〉をしようとしているか否かだ。

 「善」と「偽善」の違いの記述を思い出してほしい。両者の間には動機の違いが横たわっていた。しかし一方で、両者には共通点があった。社会貢献や慈善活動といった〈良いこと〉をしようとしていることである。「悪」に決定的に欠けているのはこれだ。

 こうしてみると、「善」と「偽善」の違いより、「悪」と「偽善」の違いの方が大きい理由もわかる。「善」と「偽善」を比較するうえで前提となっている共通項を、「悪」は欠いている。その分隔たりもあるのだ。

 「偽善」という言葉には確かにネガティブなニュアンスがある。しかし、それはあくまで「善」に比べて良くないという意味である。〈悪いこと〉を企てる「悪」と、〈良いこと〉をやろうとする「偽善」では、その行為が始まるまでを問題にする限り、「偽善」の方がはるかにマシなのである。

◆7.「偽善」かどうかは、考え過ぎない方がいいのか

 ここまで色んな角度から「偽善」について考えてきた。「偽善」の具体例を挙げ、ある行為を「偽善」と呼ぶときに何が問題になっているのかを考えた。第三者が「偽善だ」と声を上げる理由を考察し、「仕事」が「偽善」に当たるのかどうかを検討した。「善」と「偽善」と「悪」の違いについても考察した。

 そのうえで、最後に考えたいのは次のことだ。——ある行為が「偽善」なのかどうかは、考え過ぎない方がいいのではないか。

 これは特に、自分自身の行為が「偽善」かどうか気になるという場面を想像して、考えてみたい問いだ。街頭募金に協力した時、迷っている人に道を教えた時、「自分は完全に善意のつもりでやったけど、本当は良いことをしたっていう満足感が得たかっただけじゃないだろうか。それって偽善じゃないだろうか」そんな風に思い悩んだことのある方は少なくないだろう。だがそれは、そこまで気にしなければならないことなのだろうか。

 哲学カフェの中盤で、ある参加者が次のようなことを言った。

「自分の行為であれ第三者の行為であれ、それを『偽善』だと思う人は真面目だなあという印象を持ちました。要するに、受け手側の利益以外に何らかのリターンがあるものを、『混ぜ物』だと思って反応してるんだと思うんですけど、別にそこまで気にしなくていいんじゃない? という気がします」

 僕も同感だった。発言した参加者は「議論の前提を覆すみたいで申し訳ないですけど」と言っていたが、こういう意見は出るだろうと思っていたし、正直に言って、出て良かったとも思った。

 自分の行為が「善」か「偽善」かを気にすることは、行為の委縮につながってしまうと思う。哲学カフェの参加者からも、同じ意見が出ていた。「これは本当に相手のためを思っている行動なのだろうか」ということを気にしだしたら、どうしてもそれ以外の動機が目に付いてしまう。そして、自分の不純さがイヤになって、〈良いこと〉を抑制してしまう。或いは、そんな不純さを抱えたまま動き出したら、周りから「偽善だ」と言われるのではないかと怖くなる。そして、〈良いこと〉をしないように、〈良い人〉にならないようにと委縮してしまう。

 でも、それは勿体ないと思う。混じり気のない純粋な「善」は、よほどの人でないと成しえないだろう。そんな傑物になることを目指すよりは、不純な動機を抱えながらでも動きたいという気持ちを大事にすればいいのではないかと思う。周りの目が気になるのは仕方のないことかもしれない。だが、周りからの「偽善だ」という声の方が、よっぽど不純かもしれない。彼らはただ、自分の心に渦巻く〈良い人〉への嫉妬を正当化しようと躍起になっているだけということもあり得るのだ。

 「やらない善より、やる偽善」という言葉がある。こういう言葉が生まれるということは、やはり少なくない人が、自分の行為が「偽善」なのではないかと気になり、思い悩んだ経験を持っているということだろう。そして、その悩みを振り切って、行動を起こすことの方を選んだ人がいたということだろう。それでいいのではないかと僕は思う。

 この最後の項を書いていてわかった。僕は最初からこういうことが書きたかったのだ。世の中に流布している「偽善」という言葉の響きにおののき、「善」をなせるまで行動を自制した方が良いのではないかと思ってしまうところから、一歩抜け出したかったのだ。実を言うと、「偽善」をテーマに推したのは僕だった。直接のきっかけは、偶然読んだNGO関連の記事の中で「自分たちの活動が偽善だと言われることもあるけれど」という一節を目にして、「そういえば、偽善ってなんなんだろうな」と思ったことだった。しかし、今にして思えば、そのきっかけの背後には、「偽善」を気にしてモヤモヤしていた自分自身がいたのだ。

 最終項を書いてスッキリしたかと言われると、何とも言えないなという部分もある。言葉では勇ましく書いたけれど、自分自身が本当に変われるのかとなると、些か心許ない。それでも哲学カフェの力を借りつつ、ここまで考え、書くことができて良かったと、素直に思う。

おわりに

 以上をもちまして、「偽善」をテーマにした哲学カフェの振り返りを締めくくりたいと思います。

 今回は僕自身の心の中で引っ掛かっていたことと深く関係するテーマだったため、振り返りも話し合いの内容をなぞることより、自分の思考を整理することに主眼を置いたものになってしまいました。他の参加者との対話を上手く描き切れなかったのは心残りですが、どうかご容赦ください。

 ちなみに、哲学カフェ本編も、今回はかなり白熱したものになっていたという印象があります。普段の哲学カフェだと何度か沈黙が訪れることがあるのですが、今回は最初から最後まで、誰かが代わる代わる手を挙げて話をしていました。「偽善は結構話し甲斐があるし、みんな気になっていたテーマだったと思います」という感想もありました。テーマを推した身としては、とても嬉しいことでした。

 さて、後書きもここまでにして、そろそろ筆を置きましょう。最後までお付き合いくださった皆さま、ありがとうございました。それでは。

(第212回 2月4日)

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