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GW旅行記2日目~仙崎・萩編~

 5月4日、朝7時15分。

 岩国駅前のとあるホテルのロビーに、3人の男の姿があった。

 1人目は竜王さん。毎月開催されている“名も無き読書会”の代表にして、今回の3泊4日旅行の発起人である。

 2人目はしゅろさん。読書会のアウトプットリーダーにして、1日目の旅行記の執筆者である。

 そして3人目は言わずもがな、読書会のガヤ担当にして、今この文章を書いているひじき氏であった。

 これからお送りするのは、読書会でつながった3人による長旅の2日目の記録である。

     ◇

 この日の目的地は、山口県の日本海側に位置する仙崎・萩の2地点である。岩国のホテルを出発した我々は、バスと新幹線を乗り継いで新山口へ向かい、レンタカーを借りる。そしてまず、仙崎にある道の駅・センザキッチンへ向かい、早めの昼食を摂る。それから金子みすゞ記念館を訪れた後、萩へ向かう。萩に着いたら、松下村塾を訪れたり、萩城跡へ行ったりする。17時を回った頃に萩を出発し、新山口へ戻る。そうしてレンタカーを返し、ホテルにチェックインした後、居酒屋へと飲みに出掛ける——以上が2日目の行程であった。

 ただし、これは当初の予定である。そして、旅には「予定外」が付きものである。

 実際の2日目の旅は、今書いた行程とは幾分異なるものになった。我々の行く手を阻む者が現れたからだ。しかもそれは、我々を旅へと駆り立てたものでもあった。

 すなわち、ゴールデンウィークという魔物を、我々はよく知らなかったのである。

 レンタカーに乗り仙崎に向かうところまで、旅は順調そのものであった。山口在住のしゅろさんをして「実に山口的」と言わしめた、新緑の山間を抜ける信号の少ない道を、我々は爽快に進んでいた。仙崎に着いたのは、予定より早いくらいだった。

 ところが、センザキッチンが近付いた途端、しゅろさんが「あ」と声を漏らした。

 10時半過ぎの時点で、駐車場が満杯だったのである。

「こんなに早くから混むとは……」

 近年人気を増しているセンザキッチンは、お昼時には大勢の人でごった返すにちがいない。そう読んだしゅろさんは、敢えて早めに着くようにスケジュールを組んでいた。ところが、その読みを上回る速さで、センザキッチンは人でいっぱいになっていたのである。

 臨時駐車場に車を停めたところで、しゅろさんは言った。

「とりあえず、買い物して出ましょう」

 センザキッチンは、地場産のものを集めた一大マーケットとでも呼ぶべき場所だった。魚介類はもちろんのこと、肉類・野菜・果物・総菜・お菓子・ジュース・お酒といったものが、広大なスペースに売られていた。僕は方々を回り、あれこれ悩みながら、自分用に地元のゆずを使ったジンソーダを買い、お土産用にふぐ茶漬けを買った。

 その間に、竜王さんとしゅろさんは建物の外に出ていた。とにかく人が多いので、疲れてしまったらしかった。しゅろさんはいつの間にか、おつまみ用のイカを買っていた。竜王さんが何か買っていたのかはわからなかった。

「とりあえず金子みすゞ記念館へ行きましょう。それから戻って来て、やっぱり混んでるようだったら、先に萩へ行ってお昼でもいいと思いますよ」

 しゅろさんがそう言い、僕らは動き出した。

 記念館へ行く前に、センザキッチンの裏手にある堤防から海を眺めた。空はちょうど晴れており、海は青緑色に照っていた。点々と浮かぶ孤島と、陸に聳える山々の淡い緑色がよく映えていた。海が好きだという竜王さんは、スマホで何枚も写真を撮っていた。

 「崎」という字が示す通り、仙崎は日本海にぴょこんと突き出たような形をしている。金子みすゞ記念館は、センザキッチンから仙崎の突端部へ向かって10分ほど歩いた場所にあった。

 入口をくぐると、まず金子みすゞの生家である金子文英堂を再現した建物がある。建物は2階建てになっており、上がって自由に見学することができた。そこから中庭を抜けていくと、本館に連なる。ここには金子みすゞの生涯を説明するパネルや、直筆の詩の原稿などが展示されていた。直筆原稿以外にも、文英堂や本館の随所にもみすゞの詩が刻まれていた。

 僕らはそれぞれに展示に目を凝らし、時間をかけて館内を進んでいった。

 金子みすゞは僕にとって、これまでの人生で一番多く触れた詩人ではないかと思う。最初に出会ったのは、国語の教科書に掲載されていた「私と小鳥と鈴と」だった。その後、母が金子みすゞの詩を集めた絵本を買ってきて、寝る前の読み聞かせで読んでくれたお陰で(年の離れた妹がいたので、僕は割と大きくなるまで読み聞かせを一緒に聞いていた)、他の作品にも触れていた。

 当時はまだ詩の意味まではわかっていなかった。ただ、7音5音の連なりからなるリズミカルな詩と、どこか温かみを感じる作風を、子供心に「いいな」と感じていたことは確かだと思う。

 それから20年近い時を経て、再び出会った彼女の詩は、新鮮な驚きを伴って胸に迫ってきた。

 金子みすゞは、溢れんばかりの想像力を働かせて自分と自然の間を往き来し、時に無邪気な子どものような夢見心地の世界を描き、時にどきりとするような物事の本質を描いてみせていた。温かみと哀しみを、共に言葉に乗せながら、その全てを静かに包み込もうとしていた。

 しゅろさんは「不思議」という詩を見つけて、「これはいい」と何度もつぶやいていた。それから、「自己顕示欲のためでもなく、皮肉屋になるわけでもなく、ただ純粋に本質を見て詩にしている。こういう人が天才って言われるんだろうなぁ」ということを、どこか遠くを見るような口調で言った。

 竜王さんは飲み屋に入ってから、パネル展示を指して「知り合いの証言なんかも交えて、金子みすゞの生涯を展示しているのが良かった」と言っていたが、詩の感想はあまり口にしなかった。僕は竜王さんが視聴コーナーで何か聞いているのを見掛けていた。一体何を思っていたのだろうか。

 記念館から戻ってきても、センザキッチンは空くどころか混雑具合を増すばかりだった。僕らは仙崎を後にし、萩へ向かった。時刻は13時を回ったところだった。

 そしてここから、ゴールデンウィークは本格的に牙を向いてきた。

 萩には13時半過ぎに到着する見込みだった。しかし、観光を始める前にお昼を食べたいねという話になったので、ひとまず市街地へは向かわず、道の駅へ車を走らせることになった。

 ところが、最初に向かった道の駅・萩往還は、駐車場から車が溢れるほどの混雑ぶりだった。僕らは入場を断念し、地図アプリが示した川沿いのヘンテコな道を通って、もうひとつの道の駅・萩しーまーとに向かった。この時点で時刻は14時を回っていた。

 昼のピークは過ぎてるだろうし、何とかなるだろう。そんな期待に反し、しーまーとの飲食店にはなおも、遊園地のアトラクションもかくやという行列ができていた。結局、試飲用のなつみかんジュースを飲み干しただけで、しーまーとを後にした。

 僕らは徒労感を味わいながら途方に暮れていた。時間は刻一刻と過ぎていく。だが、すぐに入れる飲食店は見つからない。ひとまず車を置いて外に出ようという話になる。だが今度は、空いている駐車場が見つからない。

 ロードサイドのラーメンチェーン店に心が躍る。それを「でも山口ならではのものが食べたいじゃないか!」と強引に制し、僕らは車を走らせた。

 やっと市営駐車場が見つかった。僕らは車を降り、萩の路上に立った。互いに言葉少なだった。

 歩き始めて間もなく、しゅろさんが一軒の店を指さした。それは「どんどん」という、山口にチェーン展開するうどん屋さんだった。

「今の時間にちょうどいい」

 竜王さんの言葉を合図に、僕らは店に入った。そして、出てきた山かけ肉うどんを、無心になって食べた。

 時刻は15時を回っていた。

 うどんを食べ終えた僕らは、そこから20分歩いて松下村塾へ向かった。松下村塾は現在、吉田松陰を祀る松陰神社の一画にある。歴史の教科書に必ず登場する、明治維新の礎を築いた私塾。その壮大なイメージに反して、実際の松下村塾は、8畳の小屋に、後から増築された10畳半の部屋が付いただけの、小さな建物だった。

 だが、その小さな建物に、何十人という人が押し寄せ、吉田松陰の教えを乞うた、そこから幕末維新の功労者が多数現れたというのは、却って凄いことなのではないかと、僕は思った。解説によると、松陰が松下村塾で教えたのは、僅か1年ほどのことであったらしい。それを思うと、ますます事の偉大さが感じられるようだった。

 駐車場へ戻る道中で、しゅろさんと次のような話をした——松陰が説いた思想、とりわけ攘夷思想の部分については、後に日本が開国し、西洋文明を取り入れることで近代国家を築いていくことを踏まえると、必ずしも正しかったわけではないだろう。だが、松陰の教育を受けて、その情熱に触れた者が、近代日本を切り開いたことは確かである。ひとえにその人の情熱が称えられ、語り継がれるということもあるのだ。

 それから僕らは車に乗って萩城へ行き、さらに萩の城下町へと向かった。レンタカー返却の時間が迫る中、慌ただしく動き回ることになったが、ひとまず見たいものは見られたという格好だった。

 城下町を訪れた時のことは忘れないだろう。正確に言えば、城下町を訪れていると気付いた時のことである。

 ほんの1、20分になるかもしれないが、ともかく城下町へ行ってみようと、僕らは萩城跡を発ち、市街地の中心部へ向かっていた。すると、真直ぐ伸びる道の両側に、ずらりと続く白壁が現れた。白壁の奥には屋敷があり、所々交差する細い道には観光客の行き交う姿らしきものが見えた。

 そこはもう城下町だった。

 僕が驚いたのはその規模である。古い町並みを保存している場所は日本各地にあるが、大抵の場合それらは道1本の両脇に旧家が立ち並んでいるというもので、今風に変わっていく市街地に囲まれて些か浮いているという印象があった。しかし、萩の城下町は明らかに面的な広がりを持っていた。そこは確かに町であり、昔のものが息づく場所であった。

 これはすごい!

 帰る間際になって、僕はハンドルを握ったまま、感動を覚えていた。

 新山口に戻ったのは18時半のことだった。道が空いていたこともあり、結果的には余裕を持って帰って来ることができた。僕らはそれからホテルにチェックインすると、駅前の居酒屋の1軒に入り、酒を飲み、料理に舌鼓を打ちながら、他愛もない話をした。

 思いがけない混雑に巻き込まれ、予定の大きく狂った1日だった。とりわけ食関係は、12時前に海鮮ものを食べるはずだったのが、15時過ぎにうどんを食べることになるという、かなりの変容を被った。とはいえ、地場のものに出会い、名所を巡り、そこからあれこれと考えを巡らしたわけで、振り返ってみれば面白い1日であった。

 再びホテルに戻った後、しゅろさんは竜王さんに将棋を教わるべく、部屋へ訪ねて行った。僕も暫く同席していたが、この旅行記を書くべく、先に部屋に戻った。そうして今に至るわけである。

 どうやら日付も変わったらしい。これ以上徒に旅行記を長くすることもあるまいから、そろそろ筆を置くとしよう。

(第152回 5月4日)

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