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『モモ』課題本読書会振り返り・その②

◆はじめに

 前回に引き続き、5月28日(日)の朝に参加した、学生時代からの知り合いとやっている読書会の振り返りを書いていこうと思う。この日の読書会は、ミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』を題材にした課題本読書会であった。

 前回の記事では、本のあらすじを紹介した後、読書会前半戦の内容を振り返ってきた。僕らはそれぞれ本の感想を話した後、主人公の少女・モモと敵対する「灰色の男たち」について話し合った。

 灰色の男たちは人々のもとを訪れ、時間を節約し、無駄を省き、効率的かつ勤勉に生きるように迫る。そうやってより多くのものを生み出せば、より多くのお金を稼ぎ、より多くのものを手に入れ、より高い地位に就くことができる。人生で成功を収め豊かな暮らしを送るためには、そうしなければならない——灰色の男たちは人々にそう説いて回る。

 果たして、人々は灰色の男たちの巧みな誘導に乗せられる。成功と豊かさを手にするため、無駄を省き、時間を節約し、生産的に生きるようになる。しかし、時間が余るように生きているにもかかわらず、人々はだんだん時間や余裕を失っていく。空いた時間を無駄にしてはならないという観念にすっかり取り憑かれているからだ。人間関係も、心と心を通わすものから、店員-客・経営者-従業員のように、役割に規定された淡泊なものに変わっていく。そうして、人々は笑顔を失っていくのである。たったひとり、モモを除いて。

 『モモ』という作品は、社会の急速な発展、すなわち産業化・都市化によって生じた人々の生き方の変化を上のように描き出し、「こんな社会で、こんな生き方で、本当に良いのか?」と問い掛けているのではないか——これが、前半戦の話し合いを通じて僕らが読み解き、考えてきたことであった。

 さて、今回は読書会後半戦の内容を振り返っていこう。後半戦は、ちょっと笑えるような、でもやっぱり笑えないような話から始まる。その後、話はだんだん今の自分たちの生活を顧みる方向へと進んでいく。僕らは灰色の男たちの片棒を担いではいないだろうか? 『モモ』が警鐘を鳴らした世界から、僕らは抜け出すことができたのだろうか? 本の内容と生活の実感とか結び付き、話は更に膨らんでいく——

◆4.灰色の男たちは無駄だらけ?

 前半戦の終盤で、灰色の男たち出現後の人間関係の変化が話題に上ったことを受け、灰色の男たち以前の人々と、灰色の男たちそのもののコミュニケーションの取り方を比較しようというところから、後半戦は始まった。ところが、開始早々話の方向性を歪めてしまった人物がいた。僕である。

「これは余談のつもりで言うんですけど、人々には無駄をなくせって迫るクセに、灰色の男たちの話し合いって無駄多くないですか?」

 実際、今回『モモ』を読んだ時から、僕はそう感じていた。灰色の男たちが、自分たちの行く手を阻むモモを取り逃がし、幹部会を開くシーンがある(11章)。そこで彼らはどんな会議をしているか。なんと、端と端が見えないほどの長い会議テーブルを挟んでずらりと並んで座っている。そして、そんな長いテーブルの両端の男が立ち上がり、「諸君」と声を張って演説しているのである。非効率極まりないではないか!

 『モモ』が発表されたのは1973年である。当時はまだWEB会議システムなんて存在しないので、現代の我々が考えるような効率的な会議が描かれていないのは仕方のないことである。とはいえ、端と端を見通せないような会議室に大勢を集めて、両端同士で喋り合うというのはあんまりだろう。しかも、それをやっているのが、「無駄を省け」「効率良くしろ」と人々に迫っている張本人なのだ。

 この一大ツッコミに、読書会メンバーは大いに沸いた。

     ◇

 ここで、urinokoさんが言葉を継いだ。

「そもそも灰色の男たちって、あんなに数いります?」

 今度は僕が笑った。「そこからかー!」と思った。

 もっとも、言われてみると確かにその通りである。灰色の男たちは、人間たちを手玉に取るに当たり、車でほうぼうを駆け回り、一人一人を個別に訪問して説き伏せるという、なかなか手間のかかることをしている。そんなことをするためには、かなりの人手が必要になるだろう。実際、上で見たように、彼らの組織は幹部だけで端と端が見渡せないテーブルを埋め尽くすほどなのである。下っ端まで合わせると膨大な人数になるだろう。

 もちろん、物語的な面白さを考えるなら、主人公の敵が強大であればあるほど話は盛り上がるわけだから、灰色の男たちの数は多い方がいいということになる。だが、現実的に考えて、人々から時間を奪うのに、それとほぼ同等の人手をかけるのは非効率だというのは、もっともな指摘であろう。

◆5.効率化の自己矛盾?

 このように、後半戦に入って暫くの間、僕らは「灰色の男たちは、実は非効率で無駄が多いんじゃないか?」という話をしていた。それまで、自分たちは灰色の男たちの言いなりになって、余裕のない生活を送ってしまっていいのかということを深刻に考え込んでいただけに、その灰色の男たちの自己矛盾をスパーンと突くのは痛快であった。

 だが、話を続けるうちに、僕は「どうもこれは笑い事じゃないぞ」と思うようになっていた。

     ◇

 その時僕は、1年前にこの読書会で課題本になった『ブルシット・ジョブの謎』という本を思い出していた。この本の中に、ブルシット・ジョブ——それなりに高収入ではあるが、社会的には全く必要性のない「クソどうでもいい仕事」が、ネオリベラリズムの吹き荒れる時代に増加したという話が登場する(第5講)。

 ネオリベラリズムとは、無駄の多いお役所仕事に市場原理を導入し、不効率を削減すべきだという考え方である。この考えに基づき、日本では1980年代半ば以降、規制緩和や民営化が推し進められた。

 ところが、市場原理を導入し効率化を図ったはずの場所では、仕事の手続きが複雑化し、却って非効率化したとしか思えない事態が起きていたのである。『ブルシット・ジョブの謎』では、大学におけるシラバスや試験問題の作成過程を例に、このことが説明されている(大学の事務手続きが実例として挙がってくる辺り、いかにも研究者が書いた本という感じがする)。

 このような事態が生じるのは、ネオリベラリズムの下で官僚制と呼ばれるものが発展を遂げたからである。ここでいう官僚制とは、民間対公的機関でいうところの後者を指すわけではなく、上意下達や文書化された手続きの遵守などに基づき支配・運営される組織の在り方を意味している。

 官僚制は本来、組織を合理的に経営するための手法であるが、行き過ぎると却って無駄が多くなることが多くの研究者から指摘されている(次々増えていくルールに縛られて、思うように仕事を進められなくなる事態などを想像すればいいだろう)。ネオリベラリズムの下では、まさにこの逆効果が現れ、非効率で無意味な仕事が増加したというのが、ブルシット・ジョブ論の主張である。

 この話から見えてくるのは、「無駄をなくせ、効率を良くしろ」と迫る勢力が、実は非効率にまみれているというのは、ファンタジーの中だけの話ではなく、現実に起きている話だということである。僕らは灰色の男たちの自己矛盾を笑っている場合ではない。矛盾に満ちた非効率は、まさに今、自分たちを取り巻くものかもしれないのだ。

◆6.灰色の男たちの手下たち

 読書会に話を戻そう。

 灰色の男たちへのツッコミが一服したところで、van_kさんが質問を投げかけた。

「灰色の男たちの一人が会議の席で、『われわれには、人間の手下がたくさんいる!』って言ってるんですけど、人間の手下ってどういう存在なんですか?」

 例の幹部会の場面で、灰色の男の一人が「人間の手下」という言葉を使っている。しかし、作中に「灰色の男たちの手下」とハッキリ紹介されている人物は一人もいない。では、手下に当たる人間とは何者なのだろうか。

 この質問に真っ先に答えたのは僕だった。

「例えばですけど、モモの親友だった観光ガイドのジジを作家に仕立て上げたラジオ・テレビの関係者や、同じくモモの親友だった掃除夫のベッポをわけのわからない話をする男とみなして病院送りにした警官は、灰色の男たちの部下になるんじゃないかと思います」

 つまり、灰色の男たちが目的を遂げるのに役立つ動きをした人間が手下だということである。さらに踏み込んで言えば、それは灰色の男たちの考え方に共鳴し、どっぷり浸かっている人間だと言うことができる。実際彼らは、しがない路頭のおしゃべり男に売れっ子作家という成功をもたらしたり、たどたどしく突飛な話し方しかできない老爺を時間を浪費する存在として排除したりしている。高い地位に就くことが成功だとする考え方や、時間の無駄を忌み嫌う価値観は、灰色の男たちが説いて回ったものに他ならない。そういった考えに基づき行動する人間こそ、彼らの手下なのである。

 この後話し合いの中では、「ジジが作家として成功を収めたのがラジオやテレビのお陰だったことを考えると、そうしたメディアのコンテンツを喜んで消費する人々の中にも、灰色の男たちの手下がいたのではないか」という意見が出たり、効率至上主義者や、役に立つことだけをしようとする人は、全般的に灰色の男たちの手下ではないのかという意見が出たりした。

◆7.灰色の男たちの片棒を担いでいないか?

 そうやって灰色の男たちの手下の話をする中で、ふと、van_kさんが何かに引っ掛かりを覚えているような印象を受けた。「気になることでもあるんですか?」と聞くと、van_kさんは苦笑を浮かべながら言った。

「いや、なんていうか、自分たちが灰色の男たちの片棒を担いでいないとは言い切れないなという気がして」

 van_kさんはシステム関係の仕事に携わっていたことがある。そこでやっていたのは、従来手作業でやっていた仕事を自動化し、時間の節約や効率化を図ることだった。だが、それまで10時間かかっていた仕事を2~3時間でできるようにしたところで、働いている人たちが7~8時間休むようになったかというと、そんなことはない。空いた時間には新たな仕事が詰め込まれ、人々はいっそう沢山の仕事をこなすようになっている。それはまさに、灰色の男たちが推し進めようとしていたことではないか——van_kさんはそう思ったのである。

     ◇

 この話をきっかけに、僕らは次々に、自分たちの仕事の話を始めた。

 例えば僕は、上司から「今の方が仕事の量が増えて大変だ」と聞いた話をした。いま僕がやっている事務内勤の仕事は、殆どがパソコンを使って行う作業であるが、パソコンが登場するまでは、文書を作るのも帳簿をつけるのも全部紙でやっていたわけである。日々仕事に追われて大変な中、「昔はこれを全部手作業でやってたんだと思うと気が遠くなりますね」と口にしたことがある。その時、上司が言ったのだ。「昔はこんなにやることが多くなかった」作る資料の数も、必要な作業の量も、今よりずっと少なかった。仕組みが整って、時間が空いたから、やることが増えたのだと。

 「ということは、効率化が進むにつれて、時間当たりの作業量は増えて、仕事の難易度も上がってるってことですか」「心身の負担も増してるんでしょうか」という声が、メンバーから次々に上がった。「そういう部分はあると思う」と僕は答えた。

 また、遅れて読書会に参加した茶猫星さんは、WEB会議システムが整ったことで仕事が増えた気がすると話していた。茶猫星さんの仕事は元々出張の多いものだったが、Zoomなどが登場したことにより移動することは減ったという。しかし、移動時間が浮いた分ミーティングが増えたそうだ。短い打ち合わせのために何時間もかけて移動する必要がなくなったのは良かったけれど、そもそも移動時間は仕事のしようがなかったことを踏まえると、今の状況は仕事時間も仕事量も増えて大変だと、茶猫星さんは話していた。

 このように見ていくと、仕事の効率化を図り、空いた時間を使って新しい仕事をするという現象が、僕らの身近なところで多々起きていることがわかる。より多くの仕事をこなし、より多くの価値を生み出すことが正しいのだという考えの下、僕らの心身はより多くの負担に曝され、余裕はますます失われている。

 『モモ』が発表されて50年経ったが、僕らはまだ、『モモ』が警鐘を鳴らした世界から脱却できていないのだ。

◆8.余暇も油断は禁物?

 ここでurinokoさんから、「まあでも最近は、働き方改革とか、ワークライフバランスとか出てきて、仕事以外の時間も増えているので、時間があるだけ働き詰めになるとも限らないんじゃないですかね」という声が上がった。確かに、仕事一辺倒になる生き方を反省し、仕事と余暇のバランスを重視する考え方は広がっている。

 しかし、それは必ずしも灰色の男たちからの脱却を意味するわけではないと思う。

 まず、現代の余暇は膨大な数の趣味・娯楽産業によって支えられている。つまり、多くのものを消費することになって成り立っている。そして、多くのコンテンツを消費するためには、それだけお金が要る。そのお金は、働くことによって得なければならない。趣味・娯楽産業が提供するサービスやコンテンツ自体が悪いものだとは思わない。だが、それだけで余暇を成り立たせようとすると、結局のところ、より多く生み出し、より多く稼ぎ、より多く消費するという循環からは抜け出せないことになってしまう。

 それから、現代では余暇の時間にも、より多くの楽しいことや、より華やかなことをするのが大事だという考え方が浸透しているように思う。単位時間当たりの仕事量が増えていくのと同じように、単位時間あたりの楽しみの量も増え続けている可能性がある。僕らは余暇の時間にもゆとりを持てず、心身を擦り減らしているかもしれないのだ。

 『モモ』に描かれているのは、時間の節約を迫られ、働きづめに働かされる人々の姿だった。それから半世紀が経ち、仕事一辺倒の生き方は見直され始めている。だが、徹底的に無駄を省き、より多くの物事で人生を埋め尽くすべきだ、それこそが豊かさであり幸せなのだという価値観は、仕事と余暇の垣根を越えて浸透しているのではないかという気がする。

 『モモ』が提示した問いは、今もなお生きている。そのことを痛感したところで、読書会は終わりを迎えた。

◆おわりに

 『モモ』を題材にした課題本読書会の後半戦を振り返ってきました。途中で他の本の話を挟んだり、考えながら書き進めたりしていた結果、前半戦以上にまとめるのに苦労してしまいました。書いた内容も、予想以上に重たいものになってしまいました。読み進めるのは大変だったかもしれません。ただ、前にも書いたことですが、『モモ』という本にはそれだけ、僕らに問い掛ける力があるのだと思います。

 今回の振り返りは、主人公モモの敵である「灰色の男たち」に注目して書き進める形になりました。実際の読書会ではモモのことも少し話題に上がったのですが、深掘りするのが難しいという理由で省略してしまいました。また、モモを救った不思議な人物のことなど、読書会では話題に上らなかったポイントも幾つもあります。ここまで読んでくださった方にはぜひ、元の本である『モモ』を手に取って、ここには書けなかった事柄も合わせて、同書を味わっていただければと思います。

 それでは、そろそろ筆を置きましょう。長い振り返りにお付き合いいただき、ありがとうございました。

(第167回 6月10日)

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