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『モモ』課題本読書会振り返り・その①

◆はじめに

 今回は、5月28日(日)の朝に参加した読書会の話をしようと思う。この読書会は学生時代からの知り合い同士で行っているもので、現在はZoomを使って毎月開催している。月によって、本を紹介し合う会になったり、1つの課題本について話し合う会になったりするが、この日の読書会は後者の課題本形式であった。

 課題本に選ばれたのは、ミヒャエル・エンデの児童文学『モモ』である。noteを見ていると、他の読書会でも課題本に選ばれているようで、読書会界隈では定番の一冊なのかもしれない。

 物語の主な舞台は、とある郊外の小さな町である(解説によるとイタリアの郊外がモデルらしい)。町はずれにある古代の円形劇場跡に、モモという少女が住み着いた。モモは人の話を聞く素晴らしい才能があり、話を聞いてもらうだけで揉め事が解決したり、素敵なアイデアが浮かんできたりするので、彼女は町じゅうの人から愛され、楽しく暮らしていた。

 その頃、都会には人々の時間を盗んで回る「灰色の男たち」が出現していた。灰色の男たちに言われるがままに、無駄な時間を節約し生産的な活動に勤しむ人たちが増え、都会の暮らしは様変わりしてしまった。やがて灰色の男たちは、モモたちのいる郊外の町にも現れるようになる。人々の暮らしはゆとりのないものに変わり、モモのもとを訪れる人は日に日に少なくなっていく。

 そんな中、モモはある出来事をきっかけに、灰色の男たちの目的を阻む者として追われる身となる。仲間を失い孤立していくモモに救いの手を差し伸べたのは、時間を司る不思議な人物だった。そしてモモは、その不思議な人物に支えられながら、人々の奪われた時間を取り戻すべく、灰色の男たちと戦うことになる——

 『モモ』は基本的にはファンタジー小説である。しかしそこには、急速に発展する社会で起きていることを、人々の「時間がない」「余裕がない」という感覚を起点に描き出し、「自分たちの社会は、生き方は、本当に今のままでいいのか?」と鋭く問う、社会批判的な内容が含まれている。その問い掛けは、今を生きる我々にとってもなお切実なものなのだが、そのことは読書会の振り返りを通じて明らかにしていこう。

 というわけで、ここからは読書会当日に、参加者たちがどんなことを話し合ったかを紹介していくことにしよう。なお、読書会のメンバーは全部で6人であるが、この日1人は用事で来られなかったので、話し合いに参加したのは5人であった。

◆1.メンバーたちの感想

 ひとまず、メンバーがそれぞれ本の感想を話すところから、読書会は始まった(遅れて参加したメンバーが1人いたので、この時点での参加者は4人だった)。

 最初に発言したのはurinokoさんだった。普段は経済関連の本やマンガを中心に読んでいるというurinokoさんは、「小説は読み慣れていないので、どう読んでいいかわからなかった」と前置きしたうえで、「時間どろぼうのことが気になった。モモには感情移入しづらかった」と語った。

 続いて発言したのは、読書会の代表を務める竜王さんであった。社会問題への関心が強い竜王さんは、「『モモ』は資本主義批判の本なのかなと思った」と語った。灰色の男たちは資本主義の体現者であると考え、それにモモがどう立ち向かうのかという点に注目しながら読み進めたそうである。

 3番目に発言したのは僕だった。僕は『モモ』を読むのは2度目だったが、「初めて読んだ時に比べて、灰色の男たちがやったことが何だったのかということをより丁寧に追うことができたと思う」と話した。また、物語の後半で時間が音楽や花として描写されているのが印象に残ったという話をした。

 最後に発言したのはvan_kさんだった。van_kさんも『モモ』を読むのは2度目だったという。「初めて読んだ時は、時間どろぼうは本当に時間を盗んでいると思ったけれど、改めて読むと、盗もうとしている時間は計測できる性質のものじゃないなと気付き、じゃあどろぼうが盗んだものは何なのかと思った」と話した。それから、「時間は人々にきちんと分け与えられているので、それをどう使うかが重要なのではないかと思う」と語った。

 こうしてメンバーの感想が出揃った。それぞれ注目しているポイントや考えていることは少しずつずれるものの、時間どろぼう=灰色の男たちのことが気になるという点は共通しているようだった。そのため、後に続く話は自ずと、灰色の男たちに関するものになっていった。

◆2.「灰色の男たち」とは何者なのか?

 灰色の男たちというのは、現実の社会にある何かを象徴するキャラクターだろうという点で、僕らの見方は一致していた。問題は、その「何か」とは何であるのかということだった。

 ここで竜王さんが再び「資本主義」という言葉を繰り返した。僕はすかさず食い下がった。僕は常々、資本主義という言葉はマジックワードだと思っている。色んな意味を含んでいて使い勝手が良いが、その分いい加減な言葉だと感じるのだ。「資本主義が悪い」と言うと、巨悪に盾突くような快感がある。だが、その言葉の意味するところは、もはや漠然としていて、空虚にすら思えるのである。だから僕は、竜王さんが「資本主義」という言葉で言い表そうとしたものの正体を、本の内容に即して、別の言葉で言い表す必要があると主張した——より正確に言うと、ヒートアップしながら迫った。

 そこから本格的な読み解きが始まった。

     ◇

 まず指摘されたのは、「灰色の男たちは、物質的な豊かさだけを強調している」ということだった。そのことが特にわかる箇所として、灰色の男たちの一人がモモに接触するシーン(7章)が話題に上った。このシーンで、灰色の男はモモの目の前に、ビビガールという完全無欠の人形や、その人形で遊ぶための沢山の品物を広げ、次のようなことを語る。

〈優れたものを持っているのは素晴らしいことだ。しかし、どんなに素晴らしいものを持っていても人はやがてそれに飽きてしまう。そうなったら新しいものを買えばいい。それにも飽きたら、また新しいものを買う。そうやって次から次へとものを買えば、退屈せずに生きていくことができるのだ〉

 これが、灰色の男たちが体現する価値の1つである。そこでは、ものを沢山持っていることが大切であるということが強調されている。それも、さもなくば人はすぐに退屈し、楽しみを逃してしまうぞと言い立て、次々にものを買うように迫るのである。

     ◇

 次に指摘されたのは、「灰色の男たちは、成功することが大事だと繰り返し説いている」ということだった。ここでいう成功には幾つかの意味が含まれている。より沢山の仕事をし沢山のものを生み出すことであったり、より多くのお金を稼ぎものを手にすることであったり、人に比べて高い地位に就くことであったりする。

 例えば、床屋のフージー氏(6章)や、飲食店を営むニノ(2・7・14章)は、お客さんとのお喋りをやめたり、少しの注文で長居するお客さんを追い出したりして、店の回転率をどんどん上げている。また、モモの親友の一人で作り話をするのが得意なジジは、町の観光ガイド(実際にはその場で作った話をしているだけ)から、ラジオやテレビで引っ張りだこの売れっ子作家になっていく(13・15章)。これらが灰色の男たち示す「成功」の姿である。より生産的に、より多く、より高くへ——それこそが成功であると説き、成功を目指すように人々を駆り立てるのだ。

     ◇

 今の「より生産的に、より多く」という話とも関連することだが、「灰色の男たちは、とにかく時間を節約し、無駄を省き、物事を効率よく進めるよう説いている」という話も出た。このことは、先にも登場したフージー氏と灰色の男のやり取りを見るとよくわかる(6章)。

 フージー氏の店を訪れた灰色の男は「時間貯蓄銀行の外交員」を名乗り、フージー氏がそれまでの人生で無駄にしてきた時間を全て計算してみせる。そのうえで、その後の人生からは一切の無駄な時間を省き、余った時間を時間貯蓄銀行に預けるように説くのだ。その後フージー氏がより多くの稼ぎを得るべく店の回転率を上げることは、先に触れた通りである。

     ◇

 ここまでの話をまとめよう。灰色の男たちは、とにかく時間を節約し、無駄を省き、物事を効率よく進めるように説いて回る。そうすることで、より多くのものを生み出し、より多くのお金を稼ぎ、より多くのものを手にすること、或いはより高い地位に就くことが大切だと言う。それこそが彼らの示す成功であり、豊かさである。そして、彼らはそうした成功や豊かさへと、人々を脅迫的に駆り立てるのだ。裏を返せば、我々の社会を漂っているこのような思想——物質的な豊かさや社会的名声を得ることの大切さを説き、それらを手にするために、勤勉かつ効率的に働くよう促す思想を具現化したものが、「灰色の男たち」というキャラクターなのである。

◆3.「灰色の男たち」以後の世界 

 では、『モモ』の世界において、「灰色の男たち」の出現後、人々の暮らしはどのように変わったのだろうか。

 読書会の中でまず話題に上ったのは、「人々から笑顔が消えた」という描写であった。もっとも、笑顔が消えたというのは、言うなれば最終的な結果である。問題は、なぜ笑顔が消えることになったのかである。

 そうしていくと、仕事に追われ、時間を奪われ、人々から余裕がなくなったという事情が見えてくる。将来成功や豊かさを手にするために、今はなりふり構わず仕事に励まなくてはならない。人々との交流や娯楽を求めることなく、自分の目の前にある仕事を淡々とこなさなければならない。生活が無駄のない仕事中心になり、それに追い立てられる中で、人々は余裕と笑顔を失うことになったのである。

     ◇

 ここで見ておきたいやり取りがある。読書会中、van_kさんから、「灰色の男たちが言っている『時間に利子を払う』というのは、どういう意味だろう」という質問があった。先に紹介したフージー氏とのやり取りの中で、灰色の男は、節約して余った時間を時間貯蓄銀行に預けてくれたら利子をつけて返すと言っている。これはどういう意味だろうか。

 この質問に答えたのは僕である。「今ここで頑張ったら、将来うんと楽できるという意味じゃないでしょうか」というのがその時の答えだった。いま10分仕事に励むことで、後で20分の自由時間を得る。若いうちに知識や技術を身に付けることで、将来あくせくしなくて済むようになる。時間に利子を払うという言葉で言わんとしているのは、そういうことであろう。

 「ただ」と僕は言葉を続けた。「本当に重要なのは、実際には預けた時間は帰って来ないということですよね」

 そうなのだ。無駄を省いて仕事に励むことで余った時間を、人々は好きなことのために使えるようになったわけではない。その時間はまた、仕事のために費やされることになる。そうしなければ、より多くのものを生み出すことも、より多くの稼ぎを得ることも、より多くのものを手に入れることもできないからだ。

 灰色の男たちが「時間どろぼう」と言い換えられる理由はここにある。彼らは人々に、無駄を省き、時間を節約するように説き、人々から預かった余剰時間を、返すことなく自分たちで消費してしまう。そして、時間を奪われた人々は、果てしなく続く効率的な時間の世界に放り込まれることになるのである。

     ◇

 読書会の中では、「灰色の男たちが来た後の世界では、人間関係も希薄化しているように見える」という話も出た。お店の人とお客さんの間の、店員対客という関係を越えた人と人としてのつながり。モモと町の人たちの間にあった、時間と場所を共にする者同士のつながり。灰色の男たちが来た後の世界では、そういうつながりが失われているのである。

 もっとも、注意しておきたいのは、灰色の男たち後の世界において、あらゆる人間関係が断ち切られたわけではないということである。正確に言えば、ここで起きたのは人間関係の希薄化ではなく、性質の変化、より端的に言ってしまえば、組織化である。

 このことを指摘したのはvan_kさんである。van_kさんは、灰色の男たち以前と以後の人々の働き方の違いに注目し、彼らの世界が個人事業主中心のそれから、経営者と従業員からなる組織中心のそれに変わったのだと言った。ただし、組織における人間関係は、従来の人間関係とは異なる。それはあくまで役割に規定された関係であり、かつ、互いが互いの役割を全うしているかを監視し合うような関係である。情緒的なふれ合いを求める関係ではないのだ。こうした関係性の変化もまた、人々から笑顔が消えたことと無縁ではないだろう。

     ◇

 つまり、『モモ』という作品に描かれているのは、物質的な豊かさや社会的な成功を是とし、効率主義に傾倒していく社会において、時間を失い、余裕を失い、情緒的なつながりさえも失って、冷たい人生を送ることになった人々の姿なのである。

 読書会メンバーがそうであったように、誰もが思うにちがいない。「本当にこれでいいのか」と。

◆おわりに

 『モモ』を題材にした課題本読書会の前半戦を振り返ってきました。かなり色んなことを書いたような気がしますが、まだ前半戦です。読書会中は夢中で話していたので気付きませんでしたが、今回かなり濃密な回だったようです。もっともそれは、『モモ』という作品がそれほど話せるだけの内容を持った作品だということの証でもあるのでしょう。

 さて、振り返りは後半戦へと続きます。後半戦はちょっと笑えるような、でもやっぱり笑えないような話題からスタートします。その後、話はだんだん僕ら自身の生活を顧みる方向へと進んでいきます。自分たちは「灰色の男たち」の片棒を担いでいないだろうか。『モモ』が警鐘を鳴らした世界から僕らは抜け出すことができたのだろうか。——いよいよ、作品の内容が現在の生活と結び付いていくことになります。宜しければ、引き続きお付き合いください。

(第166回 6月7日)

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