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【日本国記】 第二章 4・日本とは世界で最も特殊な国である ―古くて新しい― 土方水月 

1 国号 「日本」とは

 
「日本」とは、701年に制定された国号であった。政體としての日本である。しかし、国體はそれよりもはるかに古い。B.C.660年といわれる。天皇の歴史でもある。

 1934年に当時の文部省臨時国語調査会が呼称統一案として「ニッポン」にすることを決議したが、政府で採択されず、正式な決定がなされなかったといわれる。その年、NHKの放送用語委員会の前身である放送用語並発音改善調査委員会が「正式な国号としてはニッポンとし、その他の場合はニホンと言ってもよい。」という方針を決定しているといわれる。

 しかしこれはどういうことか、当時の政府はなぜ「ニッポン」に決定しなかったのか?

 つまり、文部省臨時国語調査会の委員やNHKは「ニッポン」にしたかったが、政府は「ニッポン」にしたくなかったということ。そして日本人の多くが「ニホン」と言う。そしてさらにその割合は若い人ほど高くなっているという。これはどういうことか?日本人が「ニホン」と言うのに、「ニッポン」にしたかった人が当該委員やNHKに多かったということになる。戦前の話になるのでGHQや左翼の意見が強かったわけではないだろうに。

 こう考えることができる。確かに国号は「日本」であるが、これは前にも述べたように、中国の唐王朝の時代に定まったことであり、漢字の「日本」が唐の時の皇帝高宗李治によって認められ、対唐の外交上使われるようになった国号であるからである。この時代には白村江の戦いで敗戦しているがそのときはまだ「倭」であった。天智天皇の御代であった。その後の天武天皇は対唐政策を転換し、唐に親密な関係を築こうとした。それによって、天武天皇は「倭」ではない別の国号にしたかったと思われる。その陵墓は八角形であり、唐に倣い道教を信奉していたといわれる。天武天皇の「日本」は、父である天智天皇よりも夫であった天武天皇を選んだ後の持統天皇によってなったとも考えられる。白村江で戦った天智天皇までの「倭」とは違う国であることを唐に示したかったのであった。それは「隋」から政権を奪取した「唐」から見れば、自分たちと似たような国であると好感を持つことができたのかもしれない。

 つまり、漢字の「日本」がさきにあって、読みは後からであった。「日本」は「JIPPON」であったといわれる。そのため、日本は「NIPPON」が正式だということになったのではないだろうか?

 しかし、日本人にとっては「ニッポン」という発音は言いにくい。そのため「ニホン」になったのではないか?「ニホンジン」はなんでも短くする。英語でもそうかもしれない、「I am」は「I’m」になるし、「one pen」は「 a pen」になったといわれる。

「日本」の国号が定められた701年は「飛鳥新益京(あすかあらましのみやこ)」の時代である。676年に天武天皇がその造営に着手したが、飛鳥浄御原宮から遷都したのは持統天皇の御代である694年であった。そしてそこは大正時代に藤原京と呼ばれるようになった。唐の都長安の条坊制を模倣したといわれる。時の皇帝は唐の皇帝ではなく武周の武則天であった。武則天は持統天皇と同様に夫から政権を継いだ「持統皇帝」であった。持統天皇は武則天を真似たのかもしれない。




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