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卑弥呼の東征 1-3  土方水月

卑弥呼はだれだったのか?

 卑弥呼が誰であったのかを語るそのまえに、当時の日本の状況を簡単に示すと、縄文時代より前の旧石器時代には日本列島にはあまり人は住んでいなかった。アフリカで生まれた現生人類ホモサピエンスは数万年前に日本に到達したといわれるが、実際にはもっと前に日本には人がいたのかもしれないが、しかしそれはごく少数であった。その頃は氷期であり、ユーラシア大陸から日本には徒歩で渡れたという。象やカモシカも来ていたといわれる。化石が発見されているので確かであろう。

 そして、3万年ほど前には今のロシアのバイカル湖周辺から細石刃を使用する人たちが日本にやって来たという。青森に遺跡が見つかっている。その遺跡からは16,500年前の土器に米が付着していた。水稲が行われるようになった弥生時代よりもずっと前に、陸稲はもう栽培されていた。つまり、縄文時代とは狩猟だけの時代ではなかった。縄文土器の芸術性を見ただけでも、単純な狩猟生活者の創造物ではなかった。

 大陸ではまだ石器時代のころ、日本列島では縄文時代という土器時代であった。そして近年見つかった三内丸山遺跡では5,500年前に大規模な栗の栽培もおこなわれていた。その大木を使って建造された巨大施設がそこにあったことも分かっている。

 そこに、出雲族はいたという。出雲族はインド北部から北東に逃れ、ブリヤート人の集落を経由しながら、サハリンまたは北海道あたりに到達し、当時氷結していて渡れた津軽海峡を経て青森に到達したという。

 そこにしばらくいたが、寒冷化により南下したという。栗を栽培していたころは縄文海進の時代で、今よりもずっと暖かく、場所や説によって異なるが現在よりも数メートルから百数十メートルも海水面が高かったといわれる。そのため、九州でいえば福岡県の北の玄界灘から南の有明海まで海がつながっていたといわれる。

 氷期においても朝鮮半島はもともと少し離れていて、そこに海はあって海峡を形成していた。対馬海峡と言えるかどうかはわからないが、徒歩では渡れなかったといわれる。しかし、海峡は狭く、当然のことながら簡単に渡れたらしい。

 そこには海が多く、当然のことながら海岸線が長く、海産物は多く、食料は豊富であった。そして、縄文時代にはほとんど戦争がなかったといわれる。


 ちなみに、縄文時代の人はアイヌ人ではない。アイヌ人は10から12世紀頃に、北方からやってきた民族で、元居たオホーツク文化人を駆逐し、置き換わった“渡来人”であった。


 そこに、弥生人がやってきた。弥生時代とは、後に弥生式土器といわれるようになった土器が“弥生町”で見つかったからそう命名されたのであり、大規模な水稲と戦乱の時代であった。

 
 その時代こそが卑弥呼の時代である古墳時代につながる弥生時代であった。弥生時代の定義は変わってきてはいるが、稲の伝来でいえばかなり古い。水田の伝来でいえばB.C.5~4世紀頃であり、天孫族がやって来たのがB.C.4~3世紀といわれる。卑弥呼はもっと後の人であった。紀元後3世紀の人であった。

 ヤマトモモソヒメ(倭母母曾姫)はヤマトトトヒモモソヒメと呼ばれる。邪馬臺の第八代孝元天皇の娘であった。弟に大彦がいたといわれる。大彦は後にナガスネヒコとも呼ばれる仲曾大根彦であった。ヤマトモモソヒメは“倭母母曾姫”と書かれるが、このときもうすでに倭の東征は行われていた。ウマシマジによってであった。つまりウマシマジの東征が第一回目の〝神武東征”であった。そうして「邪馬臺母母曾姫」は「倭母母曾姫」に。彼女が魏志に言う“巫女”であった「卑弥呼」であった。そしてもうひとりの「卑弥呼」がいた。それは九州の宇佐にであった。


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