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卑弥呼の東征 2  土方水月

第二話  出雲族の東進と南進

 最初の神武東征はアメノムラクモによってであった。彼こそが神武天皇と後に呼ばれた。しかしそれはもっとずっと後の話であった。彼の東征は第ゼロ次東征といってもよいものであった。まだ人の住んでいなかった奈良湖のそばに移り住んだ。
 アメノムラクモは出雲王の第八代大名持ヤチホコのときに出雲にやって来た最初の天孫族アメノホアカリの子孫であった。大名持ヤチホコは大国主とも呼ばれた。そしてそのときの第八代少名彦はヤエナミツミであった。ヤエナミツミは事代主と呼ばれた。そしてホアカリは、、、、

 出雲族は津軽半島にやってきた。縄文時代のいつ頃かははっきりしないが五千年以上前のことである。インドの北部からバイカル湖を通り、シベリアを通り、アムール川を下ったというクナト族は、日本列島にやっとたどり着き、津軽半島に上陸したといわれる。そして三内丸山遺跡を造ったという。

 当時は温暖で、縄文海進が進んでいたため、海岸は近く、暖かいため栗の栽培を行っていたといわれる。しかし、その後寒冷化が進み、彼らは南下したという。日本海側を古志まで南下した。そこで、元からいた古志の菟沙族をさらに南に追いやったといわれる。その話が、古志のヤマタノオロチ退治の話になったのかもしれない。

 しかし、ヤマタノオロチ退治を行ったのはスサノヲであった。彼は出雲族ではなかった。高天原から下った天孫族であった。つまり、一般に言うアメノホアカリであった。彼がヤマタノオロチを退治し、櫛稲田姫と結婚した“スサノヲ”であった。よく考えてみれば、最初のスサノヲは実は出雲族ではなく天孫族であったはず。最初というからには次のスサノヲもいる。古事記ではスサノヲは途中から出雲族となる。出雲のスセリヒメと結婚したからである。このころは一夫多妻であった。スセリヒメは二人目の妻であった。

 出雲族は毎年貢物を送っていた古志の菟沙族に勝ち、菟沙族を南に追いやった。クナト族はさらに南進し、出雲に落ち着いた。クナト族は出雲族となった。そこは天然の良港があり、古志より北よりも雪が少なかった。出雲の国風土記の「国引き神話」にあるとおり、大山と三瓶山を杭として綱で島を引き寄せて、今の出雲半島と宍道湖ができたといわれる。そこは温暖であった。そして砂鉄も取れ、鉄器もつくれた。大山を望み太陽神を祀った。太陽神はクナト国のクナトノカミとサイノカミであった。この二神は後にイザナギとイザナミになった。サイノカミはサイヒメノカミ幸姫神となり、後に三瓶山と呼ばれる幸姫山の名になった。そして、後に岐の神となる象神である鼻高彦サルタノカミも祀った。九州ではサルタヒコであった。彼らクナト族はここで出雲族となった。

ウサ族の南下

 出雲族に追われた菟沙族は九州まで南下した。菟沙族は宇佐族となった。ウサはウサギであった。月にいたウサギはツクヨミとなった。ツクヨミは日ごとに形を変えるため、何人もいた。月は毎日変わるため28人いたともいわれる。新月にはいなくなる。大陸に渡り、月氏となり、大月氏となり、クシャーナ朝となり、釈迦族となり、釈迦牟尼と呼ばれる仏陀を出したともいわれる。インドでは“シン”と呼ばれる。薬子の変で廃太子された高岳(たかおか)親王は出家し、空海の弟子となり、発願太子真如となった。彼はその口伝を持っていたため、インドに渡ったといわれる。その後は羅越国で虎に食われて亡くなったといわれる。しかし彼は、法隆寺の玉虫厨子にもあるように、“真実を知る虎”に食われて死ぬ間際には”真実”を教えてもらったともいわれる。羅越国は今のマレー半島にあったといわれる。

ツクヨミ

 月読は何人もいた。月夜見も月読も月弓もいた。月夜見は天文博士であり、月読は暦の博士であった。そして月弓は軍事の神でもあった。古事記の中でのスサノヲは食べ物をくれた大月姫を汚いと言って殺してしまった。これはスサノヲがウサ族を滅ぼしたことを言うのかもしれない。このときのスサノヲは古事記の中ではまだ天孫族であった。それはずっと後の二回目の神武東征のときのことであった。

宇佐の神

 ウサ族は北からやって来た出雲族に追われ、元いた古志・山城から九州に南下した。豊国の宇佐に移り住んだという。出雲に天下ったスサノヲはアメノホアカリであった。しかしその後、九州にも天下った。ニギハヤヒと呼ばれた。そのずっと後の二世紀になって、九州の日向の都万にミマキイリヒコイニエが現れた。彼はニギハヤヒの後を名乗った。このニギハヤヒはニニギと呼ばれた。ニニギはニギハヤヒの弟となった。三世紀になってその子イクメイリヒコイサチは、イニエつまり崇神天皇の后であった豊国の豊玉姫とともにに東征を始めた。

"神武東征”とは

 初代大王は神武天皇であった。神武天皇は天孫族ではあったが、出雲族でもあった。天孫族と出雲族の融合の証が神武天皇であり、三種の神器であった。出雲に天下ったアメノホアカリは、出雲の姫であったヤチホコの娘である高照姫と夫婦となったといわれる。古事記ではスセリヒメであった。高照姫はヤチホコと宗像三女神のひとりタギツヒメとの娘であった。

 「神武東征」は三回あったとも言える。第ゼロ次神武東征ともいえるアメノムラクモ自身の邪馬臺入りの後にあった最初の東征はウマシマジによってであった。

 神武天皇と後に呼ばれるアメノムラクモはアメノホアカリと孝照姫の孫であった。アメノホアカリは出雲を離れたため、その子である五十猛イソタケは出雲族となった。そしてその子であるアメノムラクモも出雲族として育った。イソタケが“東征”し、丹後に移った。丹後ではカゴヤマと呼ばれた。カゴヤマは歌語山と書くが、篭山とも籠山とも書く。ここには「籠神社このじんじゃ」がある。“籠”を“かご”とは読ませない。

 イソタケ・カゴヤマのこはアメノムラクモであった。アメノホアカリは出雲に天下り、古事記ではスサノヲとなった。彼は古志のヤマタノオロチを退治した。そうして、ヤマタノオロチの尾から“アメノムラクモノツルギ”が出てくる。アメノホアカリの孫の名を持つ剣が出てきたことにした。

アメノムラクモ

 アメノムラクモは丹後から南下し、畿内に王国を造った。「邪馬臺やまと」と呼ばれるところであった。後に初代大王とされたが、畿内の王であり、出雲の王でもなかった。アメノムラクモはすでに出雲族となっていた。妻や子は出雲族として過ごした。支えたのは出雲族と妻の摂津尾張家であった。このとき畿内にいた出雲族は、出雲の富家からの分家の登美家と磯城家であった。アメノムラクモの妻は摂津三島の尾張家の娘であった。彼らがアメノムラクモを支えた。彼の子は後に第二代綏靖天皇と呼ばれるヒコヤイミミであった。兄のカムヤイミミは後には“藤原”と呼ばれる中臣氏となった。

姫と媛と比売と比弥

 第三代安寧天皇と第四代懿徳天皇の後、孝昭・孝安・孝霊・孝元天皇の時代に"倭国大乱”となる。"孝” の字がつく時代は戦乱の世であったといわれる。この時代がニギハヤヒの子孫とされるウマシマジによる二回目の"東征”の時代であった。ウマシマジはその子であったイツセやイナイやミケイリノやサノとともに東征したといわれるが、実際には、イナイはいないし、ミケイリノとサノも九州に残り、ウマシマジとイツセの二人しかいなかったともいわれる。イツセは孝元天皇の子であった大彦に敗れ、今の和歌山に眠るといわれる。イナイは新羅の王となり、ミケイリノはエジプトに、サノは九州に残っていたともいわれ、ギザのピラミッドを造ったのはミケイリノであるともいわれる。
 そして、ウマシマジは太田タネコの協力もあり、「邪馬臺やまと」に戦わずしては入れたといわれる。そうして、孝霊天皇は吉備に移り、その子であった孝元天皇の時代の王家はウマシマジの支配下にあったともいわれる。
 しかし、ウマシマジは統治王ではあったが、権威は祭祀王にあった。祭祀王は〝卑弥呼”とも呼ばれたヤマトトトヒモモソヒメであった。彼女と大彦は孝元天皇の子であった。大彦も伊賀から古志・蝦夷へと北に移った。

 孝元天皇とヤマトトトヒモモソヒメは残ったが、孝元天皇に実権はなく、ウマシマジが統治王であり、祭祀王としてのヤマトトトヒモモソヒメが権威者であった。ヤマトトトヒモモソヒメは〝卑弥呼”とも呼ばれたが、墓誌には倭母母曾比賣と書かれる。彼女は第八代孝元天皇の娘であり、大彦の姉でもあった。まだ物部や大倭(おおわ)が東征する前の畿内の邪馬臺(やまと)にいた。出雲族と天孫族とが融合した神武天皇の子孫であったが、出雲の太陽神を崇拝していた。太陽神である天照大御神を崇拝していた。その天照大御神を祀る巫女としての祭祀王であったといわれる。魏志倭人伝に“女王”と書かれたのが正しければ、ヤマトモモソヒメが祭祀王で、統治王が孝元天皇であったことになる。

 そしてその後、〝壹与・臺与”と呼ばれるトヨスキイリヒメが後を継いだといわれる。しかし、本当の卑弥呼はもう一人いた。九州の宇佐の豊玉姫であった。本当の〝神武東征”はもっと後であった。それは二回目の〝神武東征”であった。それは崇神・垂仁天皇による東征であった。臺与は“豊”であり、"豊”は豊玉姫の“豊”でもあり、豊鉏入姫の“豊”でもあった。


 

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