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いやだと思った感覚を、"いやな記憶"として認めること

(この作品は、2018年5月26日に名古屋で行われた「身体を使って書くクリエイティブ・ライティング講座」で発表した文章の再編版です。)

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幼稚園の頃の記憶はほとんど気分の悪いものばかりで、楽しかった記憶を思い出す方が難しい。

幼稚園の男の子たちは、よく私にスカートめくりをしてきた。私はそれがとても不愉快だった。大人からすれば「小さい子供のいたずらだね」と微笑んで終わりかもしれないが、当時の私にとっては胸糞悪さしかなかった。

敬老の日の催しで、ばあちゃんと一緒に給食の親子丼を食べていたら、同じテーブルで正面に座っていた男の子が突然、吐いた。テーブルは、げぼまみれになった。私はそれがとても不快だった。「調子が悪かったんだね」と心配すべきかもしれないが、せめて吐くなら吐くと言ってくれ。私のばあちゃんにかかったらどうしてくれるんだ。

キャンプ合宿で、夕食のカレーライスの配膳のために列に並んでいた。すると、そばにあったふすまが突然外れ、ふすまの向こう側にいた子供にぶつかりそうになった。私と、私の前後に並んでいた子供は、ふすまの近くにいたからという理由だけで、ふすま壊しの濡れ衣を着せられた。指一本触れていないのに正座までさせられて、これだから幼稚園の人間は嫌いだった。

幼稚園の頃に「いやだな」と感じたことは、"いやな記憶"として今でも覚えている。「仕方なかったね」とか「私も少し悪かったかも」なんて、思わない。これがいや、あれがいや、おまえがいや。だから私はいやだ。そうやって、大人よりもまっすぐに「いやだな」と思うことができる。

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ところで、"いやな記憶"には、誰かに何かをされていやだったというものだけでなく、自分自身のせいで"いやな記憶"になってしまったものもある。

小学生の頃、交換ノートがやたらと流行っていた。私もある友達に「やろうよ」と誘われた。当時の私は、彼女のことをあまり良く思っていなかった。とくに理由があったわけでもないのに。

彼女から手渡された交換ノートを家に持ち帰り、勉強机の上で開いた。キャラクターがひしめくカラフルなページの隅っこに、私は小さくいやみを書いた。そして翌日、それを彼女に渡してしまった。今考えると正気でないが、子供というのは時に恐ろしいことをするものだ。

彼女はうれしそうに交換ノートを受け取った。そして次の日から、交換ノートが私に回ってくることはなかった。

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大人になってから、町で彼女を見かけた。私はあの交換ノートのことを思い出した。謝るべきか迷った。でも、今さらどうやって謝ればいいのかもわからないし、彼女がもう忘れてくれているなら、できれば掘り起こしたくもなかった。

私は結局何も言わず、彼女が歩いて行く後ろ姿を見ていた。私は、私自身に対して、ものすごく「いやだな」と思った。私の中に最悪な記憶が生まれた日となった。

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先輩に誘われて、クリエイティブ・ライティング講座に参加した。ワークのひとつは、"記憶"がテーマだった。私は、古い記憶をできるだけたくさん引っ張り出し、紙に書き出していた。セピア色のさまざまな思い出が再生される頭の中で、あの"いやな記憶"に辿り着いた。思わず手が止まった。ペン先がわずかに震える。

どうしようか。

頭の中でしばらくの間、どきどきどき、という音を聴いていた。数秒のあと、再び手に力を入れ、ペン先の小さなボールを転がした。紙の上に現れた、気弱そうな「交換ノート」の文字をながめていた。

きつく締めた蛇口の隙間をぬって、ちょろちょろと水が流れてきたみたいだった。なぜか少し、ほっとしていた。

数時間後、講座最後の作品発表の時間がきた。私の順番になり、前に立った。手には、汚い文字で書きなぐった原稿を握っていた。"いやな記憶"という文字が暴れていた。

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思い出したくない記憶というのは、大体がいやなものだ。思い出そうとしたくないのは、不快になるからだ。

それでもあの講座で、思い出したくないものを思い出して文字として残し、果ては人前で話すことができたのは、なぜだろうか。

たぶん、いやだったことを"いやな記憶"として認めることで、腹落ちさせたかったのだろう。過去の出来事は変えられない。でも、「あれは本当にいやな記憶だった。」その事実は認めてもいいと思う。

あの友達に謝った方がいいか、謝らなくてもいいのか、それは未だにわからないし、正直どちらの結果になってもいいと思っている。ただ、"いやな記憶"をがんばって思い出さないようにしていると、余計に苦しくなるのは確かだった。

"いやな記憶"は、まぎれもなく自分が「いやだな」と感じたから残っているのであって、その感覚に間違いなんてない。

いやだと思った感覚を、"いやな記憶"として認めること。奇妙な治療法かもしれないが、そうやって認めることで少しだけ傷を癒すことができるなら、それも悪くはない。

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上記の作品を、クリエイティブ・ライティング講座で発表しました。恥ずかしながら途中で感情が高ぶってしまいましたが、最後までちゃんと読めてよかったです。発表した後、先生方に言葉をいただきました。

「言ってくれてよかったです。」

「"無垢の罪"というものもあるのですよ。」

「文章にすることで、自己治癒にも繋がると思いますよ。」

その言葉に、とても救われた気がしました。

講座の前半で身体を動かすワークを行ったことで、知らない人・知らない場所という環境でもリラックスし、気持ちを解放できたこと。お寺という不思議な場所で文章を書けたこと。いろいろな要素が重なって、今まで蓋をしていたことの、その蓋を少しだけ動かすことができた気がしました。

ありがとうございました。

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