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おれとおまえは違うんやで

社会へ放り出されてかれこれ3年が経とうとしている。学生の頃は「社会の荒波でも自分らしさを忘れないぞ!」「汚い大人に屈せず自分の正義を貫くぞ!」とキラキラをまとっていたものだ。しかし、社会に出て様々な景色を見る中で、ついに私の欲しいものリストにも「権力」が加わり、どうやらあのキラキラは剥がれ落ちつつあるようだ。あーあ。

社会で働く中で、皆それぞれ大切にしているものがある。お金、やりがい、キャリア、ともに働く人。自分の周りで、働くモチベーションをハッキリと口にする人がいたので驚いた。私自身は働く上で何を大切にしているのか、あまり真剣に考えたことがなかったからだ。ある人は「それはあなたがまだ若いからだよ」と言う。まあ、そうかもしれない。もう少し年齢を重ねたら、大切にしたいものが出てきて急に焦り始めるのかもしれないけど。

強いて言うならば、自分のモチベーションはともに働く人だろうなと感じている。今までの行動を振り返ると、自分よりも、誰かのために働いていた気がする。でもその誰かは誰でもいいわけではなく、自分が「この人のベストになりたい!」と思える人への気持ちが特に原動力になっている。承認欲求に似ているけど、全然違って、それ以上の感情なのかもしれない。今のところ「この人のベストになりたい!」が自分の感情に一番近い表現だ。

しかしこれは厄介だ。「この人のベストになりたい!」と思って行動するのは、相当難しい。誰かにとってのベストになるには、その人の考え方や行動により近づかなくてはならない。最終的には、その人自身になってしまうのが「究極のベスト」だと私は思っている。

だからつい、相手の心を読もうとしたり、同じ考え方をしようとしたり、物事に対して相手と同じ反応をしたいと願ってしまう。ただの真似ではなく、その人と同じ思考をして、そこから自然と行動を生み出したい、みたいな感じだ。で、相手にとって「ベストな存在」になる。これが上手く出来ると、すごく気分がいい。自分で書いていて気持ち悪いなと思い始めたが、実際そうなのだ。

しかし、これはかなり疲れる。どんどん苦しくなる。その人の考え方や行動が、自分が心から認められない場合もある。時に「そんなのクソじゃん」とも思う。でも、相手にとっての「ベストな存在」になりたい。何も意識せず自然にその人みたいに振る舞えたらいいのにと思うけど、そんなことはありえない。他人なので。

最悪なのは、そんなことばかりやっていたら、最後に自分の中に残るものは何もない。その人にとっての「ベストな存在」になろうとするあまり、自分の心に耳を傾けるのを忘れてしまうのだ。

だから最近は、心の中でこう唱えることにした。「おれとおまえは違うんやで」と。誰かにとっての「ベストな存在」になるために、相手の思考や行動に近づこうとするけれど、自分の心が全部ついてくるのは無理だ。だから「ベストな存在」を目指しつつも、最終的には赤の他人なのだ、と緩くブレーキを踏むことにしている。これでかなり気が楽になる。結局、私が目指す「ベストな存在」も、ただのうっすい化けの皮でしかないのだ。

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