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北国の空の下 ー 週末利用、自転車で北海道一周【28】11日目 尾岱沼〜納沙布岬〜根室① 2015年10月17日

6時に起床。週末や連休を使って、札幌から時計回りに轍を繋いできた旅は、いよいよ今日、本土最東端・納沙布岬に到達予定。
今日も根釧原野は高気圧に覆われ、快晴です。

◆ 尾岱沼の朝

宿泊した旅館には、清潔な小ぢんまりした天然温泉の浴場があり、大きな窓の外の箱庭に柔らかな朝日が差していました。
長湯をすると心身ともに弛みきってしまうので、熱い湯にさっと浸かり、厚手の半袖アンダーと、STEM DESIGNのブラックのジャージーを身に纏います。このジャージーも先日上京した時に購入したもので、シンプルなデザインが気に入っているものです。
朝食をとっていると、女将さんが「別海の牛乳です」と、グラスを持ってきてくれました。最近は低脂肪乳ばかりなので、濃厚な味わいが、感涙するほどうまい。
「今日はどこまで走るんですか?…納沙布岬までですか。100Km少々ですね」と女将さんは言います。サイクリストが泊まることも少なくないからか、ロードバイク乗りが1日100Km走ることに、大した驚きはない様子。

手放せなくなってきたダウンベストを着て、身体が暖まるまではと、ウィンドブレーカーも羽織って走り出しました。風はないに等しい状態。

尾岱沼から20キロ強先の本別海までは、根室湾沿いの渚を走ります。沖合には、昨日走った野付半島の平らな砂嘴が伸び、まばらな木々が海上に浮かんでいるかのように見えています。
尾岱沼の語源は「オタエトゥ」、砂の岬という意ですが、岬を意味する「トゥ」に「沼(トー)」の文字が当てられ、いつしか野付湾のことになってしまったそう。
その向こうには、朝もやの中うっすらと、国後島の泊岳の輪郭が浮かんでいます。

やがて、小さな潟状の場所に行き当たりました。「白鳥台」というそうで、その通り、白鳥の群れが水面で羽を休めています。
冬の訪れと共に、宮城県の伊豆沼、新潟県の瓢湖、福島の阿武隈川など、私にも馴染みの深い越冬地へと、さらに南下してゆくのでしょうか。朝の静寂の中、彼らの鳴き声が喧しく響きます。

▲ 白鳥台にて

内陸側には、荒地、防風林、牧草地が交互に現れます。こんな海岸沿いでもホルスタインの放牧をしているのは、さすが日本一の酪農地帯というべきでしょうか。

▲ 朝の根室海峡沿いを南へ。

◆ 日露関係史の舞台、茨散

海岸端に「茨散 Barasan」という剥げかけた道標が現れました。

▲ 茨散

日本離れした地名ですが、別海町のHPには、「アイヌ語で『ハラサン』-『平棚』という意味で、『住時このところに納屋を作り米酒味噌等を凾館より取り寄せかこいたりと言う』と 【北海道蝦夷語地名解】のなかで紹介されています。」とあります。

▼ 茨散

ここは1702年の旧暦9月、ロシアからの遣日使節であるラクスマン一行を乗せたエカテリーナ号が到着した場所。一行は一旦この地に上陸するも、すぐに越冬のため根室に向かったといいます。
走りながら注意してみるが、そのような歴史を語るような記念碑などは特に見当たらず、浜小屋と牧草地があるばかり。

ラクスマン一行は、難破してロシアに漂着した大黒屋三太夫らの送還と共に、日露通商関係の樹立を目的としていました。結局、通商・通交は拒まれたものの、長崎への通行証を得てラクスマンは帰国しました。しかしながら、エカテリーナ2世死去に続く混乱で、その後100年余りもの間、ロシアからの使節派遣は見送られることになりました。
当時の航海は、島伝いに補給や修繕、さらには通商を行いながらのことであり、千島列島に連なるこの地の重要性は高かったことでしょう。
もし、ラクスマンの後も継続して使節が来日し、日露通商が始まっていたならば、根釧原野や根室半島にはどんな交易拠点が形成され、どんな歴史が展開されたでしょうか。根室は函館のような異国情緒あふれる街になっていたかもしれないし、別海の原野にロシア正教会が建っていたかもしれません。
大学生の頃、日露関係史には興味を持って勉強したのですが、もはや全く記憶に残っていません。次に埼玉の自宅に戻ったら、昔使った参考文献やノートを探してみようか。

※ラクスマン一行に関する記述は、桑原真人・川上淳「北海道の歴史がわかる本」亜璃西社 を参考にさせて頂きました。

◆ 秋色の風蓮湖

海岸を快調に走って、9時少し前には本別海に到着。人家はそれなりに密集しているが、営業しているのはガソリンスタンドが一軒のみの静かな集落でした。
ここで最初の小休止。国道から少し外れたところに公民館と公園があったので、自転車を止め、芝の上で体を伸ばしました。
代謝が上がって体幹からポカポカしてきました。もうジャージー一枚でも寒さを感じません。

▲ 本別海で小休止

本別海の南側には風蓮湖があり、国道は海岸線を離れて、西側へ大きく回り込みます。風蓮湖と根室湾を隔てる砂州にも道は延びているようですが、今日は寄り道せずに先を急ぎます。
海岸線を離れて、森と牧草地ばかりが続く単調な風景の中を走ることになるのだろうか、と思っていましたが、今が見頃の紅葉の森の中、一直線に伸びる素晴らしい道が待っていました。

▲ 風蓮湖北岸の道

ガードレールも電線もない道が続きます。障害物がないので、空も森もスッキリして見えます。
木の間からは時折、風蓮湖の湖水がのぞいていました。

▲ 森の切れ間から覗く風蓮湖

自動車はほとんどやって来ません。

脳内で、ジョージ=ウィンストンの往年の名盤「オータム」が鳴り始めました。
昔も今も、秋の北海道の風景には、最高にマッチする旋律。
久し振りで聴きながら走りたくなり、立ち止まって、iPhoneに保存してあるアルバムを呼び出しました。イヤホンで耳を塞ぐわけにいかないので、スピーカーで聴きます。

透明なピアノソロが流れ始め、五感の全てに訴えかけてくる総合芸術のような時間が展開されました。
自分の中にある、ちっぽけな怒りとか不満が、すべて浄化されてしまうかのよう。
ペダルを踏み出し、素晴らしい道に出会いながら走り続けることは、心も健康にしてくれます。

ヤウシュベツ川を渡ります。
川が風蓮湖に注ぐところが、広大な葦の原になっています。自分が立っている橋以外に人工物が見当たりません。風にわずかにさざ波が立っているが、大河のように静かな川です。

▲ ヤウシュベツ川 上流を望む
▲ ヤウシュベツ川 河口

傾斜が極めて緩いためでしょう、流れがほとんどないようで、それでいて膨大な水の塊がゆっくりと移動しているのが感じられます。その動きは、せわしなく何かに追い立てられている我が身に、ゆったり構えていきなさい、と説いているかのよう。
遥か昔から、この風景は変わることなくここにあったのでしょう。
風蓮湖を取り巻く秋の風景は、清々しい感動を与えてくれました。

尾岱沼から32Km。納沙布岬まで、あと70Km。

◆ 旧奥行臼駅逓所

ヤウシュベツ川の先には、奥行という地区に向かう上り坂がありました。
小高い丘陵の上に、別海町の中心部の方へ道が分岐するT字路があり、この通行量では必要ないと思われるのだが、信号機が付いています。
ロードマップによると、このすぐ近くに、旧標津線の奥行臼駅が残っているといいます。元乗り鉄としては通過するわけにはまいりません。

T字路を入って、すぐに再び脇にそれると、右手に風格のある木造建築が姿を現しました。こんな田舎のローカル線にしては随分と立派な駅舎だなあ、と思って看板を見ると、これは「旧奥行臼駅逓所」でした。

▲旧奥行臼駅逓所

駅逓というと、何回も読み返した佐々木譲氏の名著「エトロフ発緊急電」で、ヒロインは択捉島単冠の駅逓の取扱人という設定だったことを思い出します。内地のように街道や宿場町が整っていない開拓時代の北海道で、駅逓は宿泊施設、人馬の継立の役割を担っており、本陣と呼ばれていたこともあったといいます。請負制で、行政より建物と人馬の提供を受けて運営する、いわば上下分離方式だったそう。

内部には、往時を偲ばせる調度類が見えていますが、修繕工事のため平成30年まで内部見学は中止との告知が掲げられていました。

別海町は元々、先ほど通り過ぎた本別海に漁業の拠点ができ、村役場が置かれていました。その後、開拓が内陸へと進み、1933年に現在の市街地に役場が移転したのだといいます。その中で、駅逓所があり鉄道があるこの地区は、想像するに、根室線で札幌方面からやってきた人々が厚床で汽車を降り、さらに内陸へ向かっていく拠点であったのでしょう。
駅逓所の建物は、駅逓所としての役目を終えた1930年以降も旅館として使われ、従来以上の賑わいを見せたそうです。

外観の写真を撮ったりした後、その先にある奥行臼駅を目指しました。

※ 引き続き、秋晴れの空の下、日本を代表する大規模酪農地帯を駆け、根室を目指します。


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