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13回目の3.11 ✴︎ 地方都市の新たな魅力に出会う ローカル線とブロンプトンの旅

※この記事は、以前3回にわたり投稿した記事を、一本に纏め再構成したものです。


10年前にバンコクで購入したブロンプトンを連れて、各地を旅しています。
この2年を振り返ると、山陰、信州、岡山、埼玉、北海道、南予、奈良、それにバンコクへの里帰り…

…大切な場所を忘れでねっか?

そんな声が、北の空から聞こえるような気がいたします。
かつて8年を過ごしながら、京都へ越して以来すっかりご無沙汰の東北から…


◆ 北帰行

TVの旅番組でみちのく訛りが流れてくると、懐かしさを通り越して涙さえ出そうになります。
8年間、仕事では結構しんどいこともありましたが、自然も、食の幸も、暖かな人々も、今でも大好きです。
福島で4年間。仙台には2回、通算で同じく4年。2回目の仙台赴任時には、北東北各地へも毎週足を運んでいました。

わたしが東京へ帰任した2週間後、東日本大震災が発生。
自分が今そこにいないことに複雑な思いを抱き、現地へ向かいたい気持ちが早れども、関東も大混乱、対応に忙殺され、やがて海外赴任で日本を離れたのでした。

震災から13年。例年のように全国が祈りに包まれた3月11日。
次の週末は春の陽気、という天気予報を見て、衝動的に仙台への航空券を予約しました。
最近は節約を心がけているので、もちろんマイルで。

3月15日、春らしい暖かな夕暮れ。
定時退社して、ブロンプトンを連れて伊丹空港へ向かいます。
嫌らしいことに、ANAから昼前に「天候調査中」のメッセージが入りました。今日の東北は昼過ぎから風が強まり、仙台は風速10メートル近くなるそう。蔵王おろしが吹き荒れる仙台空港は、松本空港等と並び、気流の悪さで知られています。

フライトは、天候によっては羽田か関空へ引き返すという「条件付運航」となり、定刻に伊丹を飛び立ちました。仙台へは、伊勢湾、伊那谷、八ヶ岳、日光、猪苗代湖、安達太良山や吾妻連峰、さらに懐かしい福島市上空を飛んでいきます。窓にかぶりついていましたが、見えるのは漆黒の闇と僅かな灯火のみ。
あの灯は二本松かな、という谷筋の町の灯を見下ろして間もなく、機体は大きく揺れ始めました。やきもきしましたが、定刻通り仙台空港着。上空は星空なのに、強風で海から飛ばされてくるのか、窓には細かい飛沫。

JRは強風でダイヤが乱れていましたが、22時近くに仙台駅到着。向かいのホームには満員の列車が停まっており、ホームの電光掲示板には「19:40 原ノ町」の表示。空港からの列車と入れ替わるように、南へと出発していきました。
中央改札正面に、仙台駅のシンボルとも言えるステンドグラス。
懐かしい… 
そんな呟きが思わず口をついて出ました。

もう22時ですが金曜の街は賑やか。少し歩きたい。
駅そばのホテルに荷物を置き、名掛丁を抜け、大町、一番町、南町通を徘徊。このあたりは、赴任していた当時、来る機会の多かったエリア。職務に関わることを記すのは控えますが、25年前の自分の仕事が今も残るのを目にし、密やかな喜びと共に、夜のとばりの中を一人歩きました。
文化横丁あたりで一杯、なんて思惑もなくはなかったが、伊丹空港でも呑んだので、自重。

🔳1日目 松島〜女川ライド

◆ 松島の朝

朝6時。カーテンを開けると、隣のビルに強い朝日が反射していました。
身支度を整え、7時前に仙台駅へ。駅構内にある7時開店のドトールで慌ただしく朝食の後、7時24分発の「快速松島ライナー」に乗り込みました。
乗車率は5割程度。麻疹流行の影響か、マスク着用率は100%近い。わたしもポケットをまさぐり、しわくちゃのマスクを引っ張りだしました。
宮城野区や多賀城市の住宅地が車窓を過ぎ、家並みが途切れると残雪を纏った泉ヶ岳が姿を現します。
向かいの席では、カーキ色のブルゾンを纏ったフェミニンな美少年が、ミラーレス一眼をバッグから出し、レンズを丁寧に拭いています。まもなく窓の外に海が見えました。
7時47分、松島湾の東寄りにある高城町駅に到着。向かいのホームにあおば通行き列車が停まっていましたが、松島海岸まで一駅戻るのも面倒なので、ここから走り始めます。

気温6度。北西からの風5メートル。乾いた寒気が心地よい。
朝8時の松島は静かかと思いきや、中国からの団体客がバスで乗り付け、大声で話しながら遊覧船へ乗り込んでいきました。
朝の海岸線をしばしポタリング。雲が高速で流れていきます。

3.11では、松島町は湾内の島々が盾になったおかげで被害は小さかったのですが、それでも16人の命が失われたそう。

松島を背に、奥松島パークラインを東へ。このあたりは北西からの強風が背を押してくれました。
脇道にそれ、小さな海辺の無人駅・陸前富山へ。湾の最奥部にあり、数軒の集落によろず屋が一軒。堤防によって入江の眺望は遮られています。これがなかったら、愛媛県の下灘駅等とはひと味違うフォトジェニックな駅になったのでは、と想像します。

隣の陸前大塚も、絵になる海岸の駅。隣に小さな漁港があり、船は線路をくぐって出入りします。

この先は、東日本大震災で、壊滅的な被害を受けた地域の一つ、野蒜海岸です。

◆ 野蒜海岸と宮戸島

野蒜には昔ユースホステルがあり、高校2年の春休み、釜石から鉄道とバスで南下してきて、一夜を過ごしました。その時降りた駅も、駅周辺の家並みも、津波に流されて跡形もなく、今では枯れ草と灌木が生い茂るばかりの荒地に、一直線に道が延びています。
海岸線には、真新しい巨大な防潮堤が建設されていました。

長い堤防の先には宮戸島。ここへはかつてロードバイクで何度か来て、複雑な海岸線と点在する小さな漁村を巡りました。当時の家並みの多くは失われてしまったと思われますが、ともかくも行ってみることに。
陸繋島になっている島の付け根の水路を渡り、間もなく嵯峨渓遊覧船の発着場。ここは松島四大観の一つ、大高森への登り口でもあります。ここは行ったことがないので、700mほどの遊歩道を登ってみることにしました。

展望台には女性二人連れの先客がおり、絶景に感嘆の声を上げていました。

複雑な海岸線を持つ島々を見渡していると、グラウンドコートを着込んだ年配の男性が登ってきました。どちらからですか、と話しかけられます。
男性は元高校教師、今は引退して石巻に住んでいるそう。この風景が好きで、週2回ほども来ているとのこと。
「いやね、ここにぼーっと座って、登って来る人たちと話してるのがいいんですよ」と、日焼けした顔に少し照れ笑いを浮かべ話されます。
東北では、全国で騒がれているほどのインバウンドの恩恵は実感しにくい、と先生は話しました。確かに松島あたりではそれなりの入込はあるが、例えば焼き牡蠣の値段が倍になってしまい、地元の人が気軽に口にできなくなっているとか。
仙台の北にある大衡村では、台湾の半導体メーカーの進出が予定されているそうです。しかし、それによって貧富の差が広がらないか、と先生は心配していました。幅広く雇用が創出され、その人たちが地域にお金が落として、昔からの住民も幅広く潤えばよいのだが、と。
かつて日本の製造業が中国や東南アジアへ進出したとき、現地の人は同じような懸念を抱いたのだろうな、と考えさせられます。

先生と30分ほども語り合ったのち、高台から降り、宮戸島の南岸を目指しました。小さな漁村や民宿群があり、狭い路地のような道を移動販売車が走っていた、かつての面影は残されているでしょうか。
ペダルを踏んでいると、どの道も舗装が真新しいのに気付きます。
まず大浜へ。続いて月浜へ。
外海は強風で白波が立ち、大河のように流れていますが、湾内は穏やかで、上質のスエードのような砂浜が広がっています。
月浜には民宿街のアーチが残されていましたが、堤防の背後に身を寄せ合っていた建物たちは姿を消していました。

その後、室浜海岸へ行こうとして細い山道に迷い込み、ブロンプトンを曳いて尾根を越える羽目に。
これで随分と時間を食ってしまいました。

女川まで走ってからランチなんて考えていましたが、その遥か手前で早くも11時を回っています。松島から女川まで50キロくらい、と勝手に見当をつけていたのですが、「いや、宮戸島を回ってくと、そんなもんじゃないですよ。70キロくらいじゃないかな」と、大高森で会った先生に言われてしまいました。
ということは、あとさらに50キロほど。
女川の海鮮丼どころか、この先の向かい風や帰りの列車を考慮すると、女川にタッチできるかどうかすら微妙になってきました…

◆ 東松島〜石巻

正面から強風が吹きつけます。幸い日差しがあり寒さを感じないのが救い。
海岸に延びる防潮堤の上を、我慢のライドを続けました。

やがて鳴瀬川の河口。しかし、これを渡る橋は、1.5キロほども川上、かつ風上。
ようやく国道45号線に出て、北西の風を背に受けた時はホッとしました。
右前方に矢本航空自衛隊のモスグリーンの管制塔や掩体壕が見えてきました。ブルーインパルスの拠点として知られる基地です。
それを通り過ぎると、日本製紙石巻工場の煙突が次第に近づいてきました。

かつて仙台に住んでいながら、石巻はほとんど馴染みのない町です。その先の牡鹿半島や女川へは何度か遊びに行ったのですが、石巻自体は仕事でたまに来る町に過ぎませんでした。
3.11の津波で破壊し尽くされたこの沿線は、そうと知らなければ、大規模な区画整理事業地を延々と走っているかのよう。13年の歳月を経て、当時を想起させるようなものはさすがに目に入りません。

この旅から戻った翌土曜、NHK-BSの「日本縦断こころ旅」で、震災翌年の2012年、仙石線の矢本駅から石巻へと、この日わたしが走ったルートの一部を火野正平氏が旅した記録が再放送されました。破壊された橋、建物、瓦礫の入った黒い袋の山の中を、火野さんは珍しく言葉少なにペダルを踏んでいました。
その旅の終着点は、石巻市の日和山でした。

毎年3月11日になると、日和山で多くの人が海に向かって祈りを捧げる映像が、全国に流れます。ここへはいきたいと思っていました。

が、その前に、腹が空いてどうしようもありません。石巻駅近くにある牛タン「利久」の支店へ。
一度京都で牛タン屋に入ったら、麦飯もテールスープも辛子南蛮もついていなくて、がっかりしたことがあります。正しい牛タン定食はこれだよなあ、との変な感想と共に、久しぶりの味を噛み締めました。

ようやく腹もくちたのですが、時刻は既に13時半を回っています。
帰りは、女川を14時55分に出る石巻線の列車で、輪行して仙台へ戻りたいところ。その次の女川発は17時近く、仙台着が19時を回ってしまうのです。今宵は早めに呑み始め、ひとしきり酒気帯び散歩して、気分が乗ればもう一軒といきたい。コロナ前にちょっと寄って以来、久しぶりの仙台の夜でもありますし…

こんなふうに、真っ昼間から酒場にばかり関心が向いている自分には、今振り返れば呆れるしかないのですが、ともかくも、予定していた日和山へ登る時間はなさそう。せめて麓を巡っていくことにしました。

宮城県第二の都市とはいえ、中心市街地に人影はまばら。
趣のある古い建物がありました。「旧観慶丸商店」といって、石巻初の百貨店だったそう。東日本大震災では、一階が浸水したが躯体は持ち堪え、復旧工事を経て、今では文化交流施設として使用されているそうです。

こういう場所に立ち寄りながら、先を急がずペダルを踏むのがこの旅の趣旨なのですが、この時は女川発の列車の時刻ばかりが気になっており、もう1時間早起きするんだったとか、宮戸島で時間を使い過ぎたとか、そんな後悔と共に静かな商店街を抜けていきます。
この先の門脇は、津波で200人を超す方々が犠牲になった地区。日和山を背にした木造平屋建ての小さな店「まねきショップ」は、以前TVのニュースで見たことがあります。震災で多くの人が離れていった地域のコミュニティを維持しようと、地域の方が立ち上げた商店だそう。

その先には、震災遺構・旧門脇小学校。

◆ 石巻〜女川

毎度の計画性のなさにより、女川散策どころか、14時55分の列車に間に合うよう女川にタッチできるかどうかすら、怪しげな状況となっております。間に合わない場合は、女川の一つか二つ手前の駅から輪行で戻るしかありません。
幸いなのは、この先は北西からの強風が背を押してくれること。

ひたすらペダルを踏んでいくと、道路沿いには数多くの墓石が海に向かって建てられています。
旧北上川の東岸にある渡波地区もまた、津波で甚大な被害を被った場所です。

やがて、湖のような万石浦が姿を現しました。この辺りの穏やかな風景は昔から変わりません。ただ、この辺は交通量も多く、少し神経を使いました。

強い追い風のサポートにより、何とか女川にタッチできそうです。

わたしが記憶している女川は、町外れに小さいながら旅情に満ちた頭端式の終着駅があり、そこから古い商店街が続いていて、海に行き当たるところに活気あふれる港があり、沖合の島々への渡船や釣り客で賑わっていたものです。東日本大震災の津波は、それら全てを破壊し、多くの生命を奪っていきました。
町の主要機能が高台へ移転したことは知っていました。その一つである地域医療センターが見えています。女川駅はその先にあるようなので、短い坂道を登っていきました。
医療センターの駐車場から、港を見下ろしました。

今では記憶の底に微かに残っているに過ぎない、往時の賑わいを思い出して、震災によって失われたものの大きさを、歳月を経て初めて実感した気がしました。
時刻はそろそろ14時30分です。
町役場の前を通り過ぎて走っていくと、左前方に、再建された女川駅が見えました。道路を挟んだ向かい側には新しく整備されたショッピングアーケードのような施設があり、多くの人が集っています。「シーパルピア女川」といって、津波に呑まれたかつての商店街に代わって、地域の人々がさまざまな店をここに開き、復興へと歩み始めているところでした。

地元の人、観光客、さらには他の自治体からの視察団…
海の見える高台に整備された美しい施設は、穏やかな賑わいに包まれていました。海産物はとにかく安く美味しそう。時間がないのが悔やまれます。ダイビングショップもありました。東北の海には一度も潜ったことがありませんが、水中の旅をテーマに、またこの地を訪れるのも悪くない。

この新しい小さな町を守り発展させていくのは、決して容易ではないかもしれません。でも、少なくともわたしの目には、地域の皆さんの想いがこもった魅力的な町と映りました。一軒一軒の店を見てまわり、おいしいものを食べたり、何か記念になるものを買ったりしたいのですが、まもなく列車が出る頃合い。駅前広場にある足湯に入る時間すらなさそう。
ブロンプトンを畳み、女川駅ではsuicaを使えないので自販機で切符を買っていると、折り返し前谷地行きとなる2両編成のディーゼル車が入線してきました。高校生やシニア層など、思いの外、多くの人が降りてきて驚かされます。

折り返しの列車も、先ほどシーパルピア女川にいた視察団と思われる人たちなどが乗り込んで賑やか。万石浦の沿岸を経て石巻までのんびりと、約25分。

石巻で仙石線に乗り換えます。車窓から仰ぎ見る空は、猛スピードで流れていた雲が姿を消し、初春の日差しが海面へ降り注いでいました。

松島から観光客が大勢乗ってきて近郊列車の趣となった列車は、塩釜、多賀城、宮城野区を走り、17時少し前に仙台駅の地下ホームに到着しました。

◆酒場放浪記@仙台

風は強かったものの比較的温暖だった一日。冬物ジャージーの下は汗まみれ。シャワーを浴びて着替え、夕映えの街を歩き出します。
5年ほど前の冬、一晩だけ仙台に泊まった際に寄った、南町通の料理屋へ行ってみることにしました。日本酒の品揃が豊富で、料理もおいしく、大将や女将さんも適度に話に付き合ってくれ、一人でも居心地良いお店でした。
南町通界隈は、仕事や趣味でよく来ていたところ。平日はビジネスマンで賑やかだが週末は静かな通りでした。なので予約なしでもさっと入れるだろう、という魂胆です。
寄り道や回り道をして昔を懐かしみながら、目指すお店に着くと、案の定、空いていました。すみません、土曜は暇なので油断していて…と、大将が急いで突き出しの用意にかかってくれます。
以前、自分がこの辺りで仕事していたことを話し、最近の様子を訊くと「この辺りは、もうオフィス街じゃないんですよ」とのこと。オフィスは駅に近い新しいビルへ移転したり、或いは仙台から引き揚げて東京の本社へ機能集約されてしまったり。近くにあった大手ハウスメーカーのビルも売却されてしまったそう。
「最近増えているのは、タワマンと駐車場ばかりですよ」と女将さんが苦笑していました。
それはともかくとしまして、東北各地の地酒と共に、種類豊富な一手間かかった刺し盛り、そろそろ出始めという山菜の天ぷらなどを堪能。
話しているうち、大将がわたしと同じくジャカルタで働いていたことがわかり、当時の思い出話にも付き合っていただきながら、2時間ほどかけておいしい料理とお酒を愉しみました。

もう一軒行ける頃合いですが、かなり呑んだので、少し歩いて酔いを覚ますことに。
一番街アーケードに入ると、昔からある書店の店頭に、4月30日をもって閉店するとの張り紙。こういう古い紙のいい匂いがする書店が消えていくのは、時代の趨勢とはいえ残念でなりません。

もう一軒入ろうか、どうしようか、と迷いながら徘徊するうち、歩き疲れてきました。今夜はホテルの大浴場で脚を伸ばしましょうか。

🔳2日目 仙台ポタリング

◆ かつての暮らしを懐しむ

3月17日早朝。地震で目が覚めました。
大きな揺れではありませんでしたが、最近では元旦の能登半島地震で、帰省していた信州の実家もかなり揺れ、その後、地震の少ない京都でも局地的な揺れが起きたりしており、今度は何事か、と身構えてしまいます。あとでニュースを見ると、福島県沖でM5.4の地震が発生したとのこと。
カーテンを開けると空は高曇り。

今日は特に予定を決めず、以前暮らしていた頃のように、市内をあちこち歩いて過ごそうと考えていました。

8時少し前にホテルをチェックアウト。荷物を預かって貰い、サコッシュひとつの軽装で、北へ向かってブロンプトンで走り出しました。
時々商売繁盛祈願に来た、仙台東照宮の前を通り過ぎます。
この先は丘陵地。古くからの住宅地と、東北薬科大、東北高校などが小松島沼に面して立地しています。それをかすめていく生活道路はかつての通勤路であり、記憶の断片を繋ぎ合わせながら、台原森林公園へ向かいました。
彼方には泉ヶ岳。

仙台勤務時、わたしはこの北の八乙女に住んでいました。休日に市内へ出かけるときは、運動不足解消のため徒歩で台原森林公園を縦断していたものです。子供の頃に木曽谷で育ったためか、木立の中は気持ちが落ち着きました。
このような森林公園や、さらに北にある七北田公園のような環境が身近にある暮らしは、今思えば得難いものでした。

ブロンプトンで下り基調の砂利道を走ると、反対側の門まではすぐ。

その先は、中心市街地と泉中央を結ぶ幹線道路を走ります。休日の朝によく来ていたマクドナルドが健在でした。ここで、一番町のアップルストアで買ったMac Book Proを開き、水中写真の編集などしていたことが思い出されます。懐かしくてつい脚を止め、13年ぶりで朝食を食べに入店。
騒々しさのない、居心地の良い店だな…

マックを出て、かつて暮らした懐かしいエリアをポタポタ走ります。
当時はあまり感じなかったけれど、日常生活に必要な施設がコンパクトにまとまった、暮らしやすいエリアだ。道ゆく人たちも品がいい。
ここに部屋を借りたのは、地下鉄駅に近く、故に仙台駅へも至便で、さらに東北道の泉中央インターへもすぐと、東北各地を駆けずり回るに便利な立地だったからですが、歳月を経て訪れると、住環境としての雰囲気の良さを感じます。
ベガルタ仙台のホームゲームがユアテックスタジアムで開催される週末の午後には、このエリアはサポーターの歓声に包まれます。

さらに、泉中央あたりを一回り。センスの良い生活雑貨店やカフェが集まった専門店ビル「泉中央セルバ」などで、このエリアでの暮らしを思い出しながら。

また仙台で暮らすのもいいな、と思います。
小さくてもよく走ってくれるクルマを買って、週末には自転車とテント積んで東北各地へソロキャンへ行ったり。冬は金曜の晩から盛岡へ行き、翌日朝から安比で一滑りしてくるとか。
必要なものは公共交通機関や自転車で行ける範囲にまとまった、コンパクトな大都会。海沿いなので夏も冬も気候は穏やか。
…などとお気楽なことを書いていますが、今朝も一揺れしたように、地震の多さは関西の比ではない。わたしは東日本大震災の直前に転勤で仙台を離れたのですが、在任中には岩手・宮城内陸地震が発生し、その後もしばらくは休日や深夜に余震で緊急出勤を余儀なくされたものでした。

◆ 早春の祝祭

市街地へ戻り、勾当台公園へ。
すると、多くのテントが出て、賑やかです。

農水省主催の「食べて応援しよう!in 仙台」という復興イベントが開催されており、岩手、宮城、福島から多くの事業者が出店し、地域の特産品やB級グルメを販売していました。こういうウィークエンドマーケットのような催しは大好きなので、駐輪場にプロンプトンを停め、会場へ入ります。

真っ先に目に止まったのが、福島県田村市のクラフトビール。沿岸部の町々からは牡蠣や海産物。さらに豚串やら何やら…
これはもう、真っ昼間から呑むしかありません。
必然的に、今日のポタリングはこれにて打止め。

ホップの香り高い濃厚なビールを片手に、まず牡蠣の串焼き。
続いて豚串を頬張っていると、会場奥のステージから「花は咲く」が聞こえてきました。
あの日から何万人もの人が口ずさみ涙したであろう、そしていつまでも歌い継がれるであろう名曲。
アイドル風の少女3人組(みちのく仙台ORI姫隊というのだそうです)に挟まれて、ステージの中央にはゆるキャラの着ぐるみ。その両脇ではORI姫隊より年嵩の女性2人が歌っていました。

真ん中にいるのは、福島県浪江町のゆるキャラ「うけどん」。浪江を流れる請戸川という、桜並木に彩られた川がその名の由来。請戸川を遡上する鮭の帽子をかぶり、大堀相馬焼の丼に乗っています。脇を固める女性2人は、浪江出身のsatoko&satomi というユニットだそう。学年に1人か2人いる、噂の可愛い子といった感じ。
satomiちゃんは、時々涙を拭いながら、一生懸命に歌っていました。健気過ぎて抱きしめたくなってしまう。向こうは絶対イヤだろうけど。

福島原発事故で町全体に避難指示が発出された浪江町。震災前に2万2千人だった人口は、避難指示が解除された今日も、その十分の一に留まっています。避難先で生活の基盤を確立した人も少なくなく、町の調査によると避難した町民の半数が「戻るつもりはない」と回答しているとのこと。廃炉作業も未だ先が見えず、13年を経て今なお厳しい現実が目の前にあります。
そんな中で彼女たちは、故郷の未来のため、暗闇の中に例え小さな灯りであっても点そうと必死なのでしょう。と言いますか、彼女たちは、既に一筋の希望の光になり、人々が前を向く力になっていると思います。

浪江だけではありません。震災特需がひと段落した後、東北経済は落ち込んでいると聞きます。賃金上昇とインフレの好循環とか、株価史上最高値更新とかいうけれど、その恩恵が全国の隅々にまで波及するには、どれくらいかかることでしょうか。

そのような中、この小さな祝祭に集うある人は、厳しい現実をひと時忘れたくてここにいるのかもしれません。ある人は互いの連帯を確かめ、共に前を向いて歩いていこうとしているのかもしれません。またある人は、愛する土地のことを少しでも知ってほしいという想いで、声を枯らし笑顔で来場者に呼び掛け続けているのかもしれません。

それにひきかえ、わたしはどうか。
社会人としての自分を育ててくれた東北の地に、まだ何も恩返しができていない…
この場所の空気に実家に戻ったような居心地の良さを覚えながらも、そんなことを痛感していました。

夜9時。京都へ戻り、阪急嵐山駅前でプロンプトンを組み立て、冷たい比叡下ろしの中、渡月橋を渡ります。
束の間の懐かしく暖かな夢から醒めたような想いが、胸の底にありました。

〈了〉

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