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気分転換の大学受験生日記8

朝は5時から起きてるし、塾にも8時には入っているのになぜか毎日10時前後にこれを書いていることに気づいた。特にこの時間に書く予定を組んでいるわけでも無ければ自習を切り上げているわけでもないのにだ。無意識部分の感覚が行動を支配しているのだとすればこれもある種の習慣と言えるのかもしれない。
自分と親とは何かと気が合わず、去年の夏休みなんかは出て行けと言われて丸二ヶ月家の敷居を跨がなかった程度には馴染まない。これは親と自分だけではなく、両親の関係もこれと同じなのだ。小5の秋から親父が一年近くいなくなったと思えば、中2夏から半年ばかり母親が出て行って音信不通になった。しかも戻ってきた理由が出て行った方の親(自分から見て祖父母)からなんとか復縁してくれと頼まれて迎えに行ったからというレベル。これほど仲が悪いのに一度も離婚の話が出たことがないのは奇跡なんじゃないだろうか。
前置きが長くなったが本題に入ると受験においてもこれが非常に面倒くさい。親は推薦で去年早慶に行っておけばよかったと小言を言う。国立も北海道や阪大はやめて一橋でいいんじゃないかという。私立なら中央の法と言わず早慶の方がいいという。おそらく社会に出た先人の言葉として非常に正しいことを言ってているのだと思う。(母親の経歴は自分も評価しているし、バブルの影響を考慮しても、自分が新卒で同額稼げると思えない)
自分は日本が学歴社会であることを否定しないし、絶対海外に出ていく気がないから母親のいうことが正しいのは自分の知識を参照しても分かる。しかしそうじゃないのだ。自分の高校だけではないと思うのだが、自分の中高ではたとえ早慶であっても推薦使って行くやつは勝負から逃げたダサい奴という風潮があり、冗談で「推薦早慶より自力MARCHの方がかっこいい」とか言われていた。そして自分もそう思っていた。だから去年推薦を選ばなかった。
一橋の方が北海道や阪大より偏差値が高いかもしれないし、実用的かもしれないが自分は旧帝という名前が欲しかった。近代の学歴主義によって与えられた権威より、時代と国から与えられた権威に魅力を感じた。早慶よりも中央の法を望んだのもそう。確かに一般社会で大学の話をしても、「早慶です」とは言っても「早慶の〜学部です」とまでは言わない。なら「中央です」より「早慶です」の方が見る目が良くなるのも理解できる。でも自分は中央法というブランドに憧れる。
親と揉めている3つには共通点がある。社会での有効性よりも自己満足のロマンを求めているという点。「推薦早慶」「エスカレータ早慶」という聞かれもしないことを嫌がったのも自己満足。「私大トップの早慶」「国内3位の一橋」よりも「中央法」と「旧帝大」を選んだのもブラントに固執する自己満足。親の方が全面的に正しいと認めているからこそ「若いんだよ」という親の発言が耳に痛いし、素直に考え直すべきかとも思っている。


普通に生活費に溶けます