【読書】『ローマ人の物語 ローマは一日にしてならず[上]01』【敗者同化路線】
なぜローマ人だけが大を成せたのか?
ポリビウスの『歴史』は、ローマに眼を向けた、それも実証的な立場から焦点を当てた、最初の歴史作品になった。
その彼が「なぜ?」という問いを発する。
なぜ祖国ギリシアは自壊しつつあり、なぜローマは興隆しつつあるのか。
とは、ポリビウスが『歴史』の序文で書いていることである。
ローマ人自身が認めている。
周辺の多民族よりも自分たちが劣っていることを。
それでいて、劣等感の塊であったかと問われれば、そうではない。劣っていることを自覚していながら、それでも一大文明圏を築き、長期にわたって維持していたのである。
ボリビウスでなくても「なぜ?」という問いを発するであろう。
そして、その問いの答えを考えていくことで、ローマ人にあやかりたいと考える。
敗者同化路線
ローマを建国し、初代の王となったロムルスは、国政を三つの機関に分ける。
王・元老院・市民集会。
何もかも自分一人で行う王にはならなかったところが、いかにもローマ人らしい。
次に行った事業が、他部族の女たちを強奪することだったというから、出自を疑うのは当然であろう。
プッサンやルーベンスなど後世の画家たちにも格好な画像を提供することになる「サビーニの女たちの強奪」だが、当然ながら女たちを奪われたサビーニ族が黙って引き下がるはずがない。
合計四回に及んだ戦闘は、サビーニの女たちが戦いの間に割って入ることで解決をみる。
強奪された女たちは、奴隷にされたわけでもなく、妻として相応な待遇を受け、そしてローマ人の夫を愛していた。その愛する夫と親兄弟が殺しあうのを見ていられなかったからだ。
そのあとのロムルスの提案は、サビーニ族と合同する形での和平の提案だった。それも併合ではない。サビーニの王タティウスと、ロムルスの二人の王が並立する形での合同である。
三代目の王トゥルス・ホスティリウスの時、近隣のアルバと戦端を開く。
無用な出血を避けるために双方から代表者を出し、三人ずつの決闘という形を提案した。
ローマ側の代表者が勝ち、アルバの代表者は負ける。だが、アルバの王は約束を破る。
その後のローマとアルバの戦いは、ローマの勝利に終わる。
アルバの王は捕らえられ、極刑に処される。アルバの都市は破壊され、住民たちはローマへ強制移住させられる。
しかし、アルバの民は、奴隷としてではなく、ローマ市民として同等の市民権を得て迎えられる。
これはローマの基本方針になる。
約束不履行や裏切りに対しては容赦はしない。
しかし、敗者を奴隷にすることや、支配することも、搾取することもない。
敗者を同化させる方向に向かう。
プルタルコスは『列伝』の中で次のように述べる。
人間行動の正し手を「法律」に求める
人間と野獣が異なるのは倫理道徳を守るからなのだが、だからといって倫理道徳に訴えるだけでは効果がないのも事実である。
ということで、自浄システムが必要なのだが、それをユダヤ人は宗教に、ギリシア人は哲学に、ローマ人は法律に求める。
ユダヤ教しか認めなかったユダヤ人が、それを宗教に求めるのは当然として、ギリシア人の法律に対する考え方も面白い。
アテネは、民主政があったとしても開放的ではなかった。はじめは親のどちらかがギリシア人であればよかったが、時代が下ると両親ともにギリシア人でなければ市民権が認められなくなる。
ということで、アテネ市民であるソクラテスにとってアテネは祖国であり、悪法でも祖国の法に従って毒を仰ぐ。他方、アテネ生まれではないアリストテレスにとってアテネは祖国ではないため、法には殉じずさっさと逃げる。
こうなると、法律に従うかどうかの「哲学」的な問題が生じている。「遵法精神の哲学」と考えると、ギリシア人は根っからの哲学の民だっただろう。
敗者同化路線をとるローマにとって、宗教も異なれば、価値観が異なるがゆえに哲学も異なる人たちと生きるのに、倫理道徳を守らせるための自浄システムは「法律」しかない。
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