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日川高校時代のこと

こんにちは。
スクラムヒューマンパワー代表 日原 達仁です。

私の記事を読んでいただいて、ありがとうございます。

クリーンファイターズの軌跡」をまとめるために
古い資料を探していたのですが、
日川高校時代に取材を受けたときの冊子が出てきました。
マイタウンという地方のタウン誌で、1989年のものです。
あまりの懐かしさに、つい読みふけってしまいました。
せっかくなので、少し当時のお話をしようと思います。

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この記事の2年前、私は兄の後を追って
日川高校ラグビー部に入部しました。
当時の監督、元日本代表の有賀健さんから
希望するポジションを聞かれたときには、
迷わずフォワードの花形ポジションNo.8を希望しました。

しかし「足が遅い!」と一喝され、プロップを任されます。
1番・左プロップは、スクラムを組む時最前列の左側に位置し、
相手フォワードと直接組み合ういわばスクラムの要です。
責任重大ですが、どちらかというと地味な役割なので
当時は少し残念に思ったことを覚えています。

日川高校時代は一年生からレギュラーでしたので、
上級生を相手に気迫だけでも負けないよう頑張りました。
スクラムは一瞬でも気が緩みだすと大怪我をすることになります。
また、スクラムを組んでいるときは息ができません。
何度も何度も、それこそ気が遠くなるような回数のスクラムを組んでも、
難しくやり甲斐があるポジションです。

わたしは次第に「プロップ」が好きになっていきました。
たとえ試合に勝ってもスクラムで負けていたら勝った気がしないですし、
逆に試合に負けてもスクラムで勝っていたら、納得できる。
そんな奥深いポジションです。

当時の日川高校の夏合宿は、「名門・日川は夏を過ぎると強くなる」
と語り継がれるような激しいものでした。
別名「地獄の夏合宿」とも呼ばれていました。
選手たちにはこちらの呼び名の方がしっくりくるかもしれません。

夏というのはラグビーにとって勝負の季節なんです。
オフシーズンである夏に、どれだけ走り、
鍛え上げることができるかで冬の勝敗が決まります。
日川高校だけでなく、甲府商業や白根高校、
富士河口湖高校などから選ばれた国体候補選手が集まります。
また、神奈川県の日大日吉高校や
東京の名門・本郷高校の生徒たちも参加して、
100人を超える選手たちが合同で練習します。

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朝六時半から、準備体操が始まりランパス、
フォワードとバックスに分かれての練習へと続きます。
日川の夏合宿の厳しさと質の濃さは、全国でも群を抜いていたと思います。
午前中の練習を11時ごろに切り上げ、
午後2時まで朝昼兼の食事とミーティング、昼寝をします。
午後2時からは各高校それぞれのチームに分かれて練習試合です。
練習試合の反省点を確認し、また練習、
ナイター照明をつけて、午後9時頃まで続きます。
食事と夕食をすませ、寝るのは10時30分頃でしょうか。

「寝ることだけが楽しみで、いかに長く眠るか。
食事よりも寝る時間の方がずっと大事」と、
当時の私は馬鹿正直にインタビューに答えていました。

「地獄の夏合宿」は確かに辛く苦しいものでした。
しかしその苦しみを乗り越えて得られるものは、
一生忘れられない最高の経験です。
共に頑張り通した仲間への感謝や、
感動の一瞬一瞬が、今でも鮮やかに思い出せます。


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