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「自律型組織」の実践 帝京大学ラグビー部のこと 2

こんにちは。
スクラムヒューマンパワー代表 日原 達仁です。

私の記事を読んでいただいて、ありがとうございます。

山梨県で開催された大学ラグビー春のオープン戦、
帝京大学と明治大学の試合時のことです。
「会場周辺を大きな選手がゴミ拾いをしている」と話題になりました。
当時連覇記録を打ち立てていた帝京大ラグビー部の選手達です。
彼らは連勝を続けていても、決して奢らずとても謙虚な姿勢でした。

今では社会で活躍している帝京大学ラグビー部のOB達は、
学生時代に理想の組織というものを学びました。
それに、岩出監督という素晴らしい師匠との出会いですね!
これが彼らを素晴らしい選手へと成長させた要因のひとつだと思います。

私のクリーンファイターズ監督時代、平成13年のシーズンのことです。
新キャプテンに就任した手塚選手が、ファーストミーティングで
「これから月1回、会社の前に流れる重川の河川清掃を
   ラグビー部として行う。会社のCSR活動に貢献する」と、
チームにコミットメントしました。

数年前から工場幹部は、CSR活動の一環として、
毎月月末朝8時からゴミ拾いをしていました。
長靴を履いて河川の中まで入り、
本気の清掃活動に取り組んでいたおかげか、
環境美化活動への貢献が伝わり、
山梨県からも感謝状を頂いたこともあります。

当時総務課へ配属されていた私は、半ば仕事でその業務に関わり、
まだ若いことも手伝ってか、やらされ感が出ていたかもしれません。
感謝状の授賞式に、東京本社から三科会長が来てくださった際に、
会長のCSRへの想いを聞く機会がありました。
三科会長は私の「師匠」と呼べる存在です。
興味のある方はこちらを読んでみてください。

創業時代は都内でも、住宅は今ほど混み入ってはいませんでした。
もちろん山梨工場、重川周辺も今ほどの住宅地ではありません。
しかし会長は、
「近隣の住民に迷惑をかけないよう、気配りをしたんだ。
   もしあの河川が台風で氾濫したら、
   工場も被害を受けるが地域の方も大変なことになる。
   わずかでも周辺の整備をすれば、
   注目を集めることが出来れば協力も得られ、
   災害に強い地域にすることができる」
と、話してくださいました。

若い総務課主任は、正直なところ、
そんなことまで考えてみたことがありません・・・。
頭の中は「???」です。会長は続けて、
「ラグビー部の選手は重川清掃に参加しているんだよな?」と問われ、
血の気が引く思いで
「すみません、参加していません・・・」と答えました。
会長は遠くを見つめ
「今日は山梨に泊まるので、
   明日は武田家ゆかりの神社に連れて行ってほしい」と、
おっしゃいました。

翌日、会長と神社へ向かいました。
神社の清廉な空気に、清々しい気持ちになっていると、会長は
「日原、神社は神聖なる場所だね。ゴミも落ちていない。
   トイレも綺麗だし、感謝の心になるな。
   武田信玄も戦の前には神社で参拝し、必勝祈願と
   無事に甲斐の家族の許へ帰ってこれるように祈りを捧げた事だろう」

と話してくださいました。私は頭の下がる思いです。
深いお話にただただ関心したことは、今でも覚えています。

経営者としての厳しい顔、そして社員への想いに満ちた優しい顔、
どちらも三科会長です。会長を甲府駅まで送り届け、
会長の言葉に思いを巡らせます。
会長と私は同じ誕生日で、なにかご縁もあるんだろうなと、
親近感も抱いています。

その日から、どうやって選手に重川清掃に参加させるか、
ずいぶん長い年月考え続けてきました。
ですが手塚選手は、監督の私にも報告なく、
「俺たちがラグビーの活動ができるのは会社、社員のお陰であり、
俺たちも貢献しよう!」と言い出したのです!

手塚選手は、実は私とは同期入社です。
同じ山梨県の高校、大学時代も選手としては無名でした。
ラグビーのセンスはありましたが、
同じポジションに数名ライバルがいたため、
公式戦の出場機会も少なく、日の目を見ない時期もありました。

当時キャプテンをしていた私は、
「やる気がないなら練習に参加しなくてもいいよ」と、
厳しいことを伝えたこともありました。
手塚選手は一日中現場で溶接作業をし、神経も体力も消耗します。
20時からのラグビー練習も、ハードに追い込んでいましたので、
「ピリピリムード」です。何も言わずに練習に戻ってくれたので、
正直、安心感から気が抜けました。

監督に就任し3年目のことです。
昨シーズンまでキャプテンをしていた岩室選手が、
営業職に配属され、横浜に転勤が決まりました。
「次のキャプテンは、立候補で決める」と
方針を打ち出しましたが、チームの状況を改善できないジレンマもあり、
相応しいキャプテンを選考できるだけの技量もなく、
この際、くじ引きにしてしまおうか・・・と曖昧な気持ちでいました。

そんな気持ちで悶々としていると、総務事務所に手塚選手が現れ、
「たっさん、俺来シーズンキャプテンやるよ」と、報告にきました。
選手には年上の人もいたり、近い世代の方ばかりでしたので、
私のことを監督ではなく、日原さん、
たっさんなどと呼んでくれる選手ばかりでした。
私もその方が気が楽でした。
今思うと、チームの存在感だけは高く、
将来のことを考えると不安に包まれていた時期でした。

手塚選手がキャプテンに就任し、新人や若い人に偏っていた雑用を、
キャプテンから率先垂範し取り組むように変わりました。

グラウンドや、備品の管理なども、率先して取り組みます。
手塚選手に「なんでそんなことも言えたり行動できるの?」と質問すると
「だってたっさん黙ってやっていて、俺も協力したいと思っていたけど、
    なかなか行動できなくてね!いい事は理屈なくやるじゃんけ!」
と、照れながら答えてくれました。

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監督として、ラグビー部を強くしようと必死で取り組んできました。
取り組んできたことは伝わっていたと、
手塚選手の言葉に、帰りの車中で涙を流したことを覚えています。
苦しい時代に、監督という立場、私だけが事務職です。
選手は皆、現場で汗を流しています。
これ以上負担をかけられないし、苦しい気持ちでいっぱいでした。
やめたい、逃げたい、会社にもグラウンドにも行きたくない、
孤立感ばかりが募りました。
そこに心強いキャプテン、手塚選手が名乗り出てくれたのです。

チームはクラブ化し、手塚選手は2年間キャプテンを務めると、
あっさり若い世代にバトンタッチしました。
「たっさん、もうやり残したことがない。岩田にも報告できるかな」
私たちには、同期で入社した高卒の選手で、
入社して3ヵ月、自ら命を絶った選手がいます。原因はわかりません。
同じ新人で、仕事もラグビーも新しい環境、心の余裕がありませんでした。
「ラグビー部が廃部になったら、岩田が天国で悲しむよ。
   これから俺はラグビー部を支える立場で仕事を頑張る」とだけ報告し、
シーズン終了の納会で、選手を引退しました。笑顔での引退でした。

手塚選手が、あの時
「重川清掃にラグビー部として参加する」と言ってくれた時から、
チームは社会、他者のためにと視野が広がり、
地域への活動が始まりました。

帝京大学ラグビー部の岩出監督は、
「勝ちたい、勝たせたい、みんなを幸せにしたい」と
本気で思ったのだと思います。愛情です。
私もチームと、選手と、愛で関わっていきたいと思います。


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