ホルガ村と私たち

はじめに

 今回は、「小さなコミュニティ」の性質と「コミュニケーションに伴う痛み」の2点に着目して『ミッドサマー』を鑑賞し、私たちを取り巻く日常についても改めて考えてみる。

 なお、大変長くなるため、記事を二本に分けることにした。本稿は前編である。ここでは『ミッドサマー』のあらすじと、私自身の身近な「小さなコミュニティ」における経験を中心に述べていく。いわば鑑賞の前段の位置づけなので、作品自体の詳細な感想は、後編に譲るものとしたい。


鑑賞前のイメージ

 『ミッドサマー』ディレクターズ・カット版が日本で公開されたのは、2020年3月のことだ。監督のアリ・アスター氏は、長編映画監督としてのデビュー作『ヘレディタリー/継承』で既に絶賛を受けており、二作目の長編ホラーである本作にも公開前から高い期待が寄せられていた。

 ホラーと言っても、本作は幽霊やモンスターといった超常的な存在で怖がらせるわけではない。カテゴリとしてはいわゆる「サイコロジカル・ホラー」、つまり、狂気や悪意あるいは不可解さや不安感など、恐怖心理そのものとその要因を、じっくりと描くタイプのホラーだ。
 アリ・アスター監督は、前作でも「家族の絆」にまつわる呪いじみた側面を丹念に描き出して観客を恐怖させ、このジャンルの旗手として一躍名を馳せた。

『ミッドサマー』のキービジュアルは、一見ファンタジー映画かと見紛うほどのどやかで美しい。
 明るいターコイズブルーの空の下、色とりどりの花が咲き乱れる野原にそびえ立つ、瑞々しい緑のメイポール。その周りを囲んで輪になって踊る、花冠を戴いた白いワンピース姿の妖精めく少女たち。それらを背景に、同様の装いの女性が顔を歪めて泣いている。 

 牧歌的で晴れやかな祝祭のうちに不穏な狂気が滲むこのポスターは、私に鮮烈な印象を残した。

 しかし、「厭な気持ちにするのが上手い」「どうしようもなく鬱々とした気持ちに陥る」といったネットでの評に、興を喚び起こされると共に、尻込みもした。それで、そのうちもっと心身に余裕ができてから……と思う間に様々なことが立て続けに起き、手を伸ばす機会を逸してしまったのだった。
 ようやく視聴に到ったのは、ごく最近のことだ。

あらすじ

 さて、まずは本作のあらすじを起承転結に沿って記しておこう。

起 孤独な主人公とディスコミュニケーション

 ある冬の日――妹が実家の両親を道連れにガス自殺し、主人公・ダニーは、学生にして天涯孤独となってしまう。
 負担に思われることを恐れつつも、恋人クリスチャンへの依存を止められないダニー。クリスチャンは以前からそんな彼女にうんざりしているが、別れ話に伴う面倒や責任を負う覚悟は無く、このタイミングで別れを切り出すわけにもいかずに頭を抱える。

承 隠れ里ホルガへの誘い

 夏――クリスチャンは学友のペレに誘われ、三人の学友と共に、スウェーデン辺境の「ホルガ村」で行われる夏至祭を見に行く旅を計画する。今年は90年に一度の大祭だという。
 ひょんなことからこの予定を知ったダニーは、同行を希望する。内心白ける男性陣だったが、ホルガ出身のペレだけは、幼くして両親を亡った自分を受け入れてくれたホルガへの感謝を語り、彼女の同行を熱心に後押しする。

転1 衝撃の因習と、対立を深める来訪者たち 

 世間と隔絶し、風光明媚で人心穏やかな理想郷ホルガ――そこで、ダニーたちは独自の死生観に基づく終末儀礼「アッテストゥパン」を目撃する。ショックで泣き叫ぶダニー。
 それは、一定年齢に達した老人が、最期の晩餐の後人々の前で崖から飛び降りて自決するというものだった。
 この儀礼を見てホルガ村を激しく非難した旅行者のカップルは、翌日姿を消した……。

 不信と孤独を深めるダニーと、彼女に苛立つクリスチャンは、急速に険悪になっていく。
 また、論文のフィールドワークを目的としてこの地に来たジョシュは、自分の研究にタダ乗りしようとする学友クリスチャンに激怒するが、クリスチャンは非を認めず、二人は決裂する。

転2 消える人々、村に馴染んでいくダニー

 ホルガの掟にそぐわぬ来訪者たちは、次々と姿を消していく――
 世間にホルガを告発しかねなかったサイモンとコニー。祖霊の宿る樹に立ち小便をして守り人を激昂させたマーク。司祭との約定を違えて村の聖典を盗撮したジョシュ。

 一方、ダニーは夏至祭の支度を通して村の女性たちに心を許しはじめ、メイクイーンを決めるための踊りの輪にも参加する。ハーブ水と舞踏の作用による幸福な一体感の中ダニーは優勝し、村の人々とも打ち解ける。

 しかし、メイクイーンとなったダニーは、村外れの小屋で衝撃的な性儀礼を目撃する。そこでは、薬で酩酊させられたクリスチャンが全裸の女達に囲まれ、ホルガの娘とまぐわっていた。
 啼き叫ぶダニーをホルガの娘たちが取り囲み、慟哭を真似て同調することで落ち着かせていく。

結 最後の生贄とダニーの選択

 祝祭に必要な供犠は9人――
 アッテストゥパンで亡くなった2人と、消えた来訪者たち4人。残る生贄に志願したのは、サイモンとコニーを連れてきた村の若者と、マークに穢された霊木の守り人の2人。
 最後の一人は、くじで選ばれた村人かクリスチャンかを、メイ・クイーンが選ぶ。選択を迫られたダニーは、クリスチャンを指名する。

 燃え盛る神殿の中で、熊の毛皮に包まれ身動きできないクリスチャン。村秘伝の安楽薬の効も無く、啼き叫ぶ生贄志願者。周囲では、生贄に同調するかのように人々が嘆きの声を上げて身を捩っている。ダニーは泣きながらも、その様子にうっすらと笑みを浮かべた……

「小さなコミュニティ」と私たち

 実際に鑑賞して感じたのは、『ミッドサマー』は「小さなコミュニティにおける絆」にまつわる物語であるということだ。
 前作でフォーカスされた「家族」は、謂わば他者同士が形成する最も小さなコミュニティだ。そう考えると、アリ・アスター監督が描き出すテーマは今のところ一貫していると言えそうである。

 さて、ここで、「小さなコミュニティ」にまつわる私自身の経験と見解を記しておきたい。
 長くなるが、私にとって本作の観賞の前提となるものなので、どうかご寛恕頂ければ幸いだ。

心の避難地としての「小さなコミュニティ」 

 心身が悲鳴を上げていた時期、私を支えたもののひとつは、SNS上の趣味のコミュニティだった。 

 そうしたコミュニティには、仕事や家庭に疲弊していたり、社会や他者との関わりに痛みを感じている人も少なくない。「世間」という曖昧かつ巨大なコミュニティ、あるいはそれに規定され紐付けられる「職場」「学校」「家族」といったコミュニティの中で、誰も皆、疲れているのだ。
 私も含め疲弊した人々にとって、趣味とそれを愛する同好の士との繋がりは、「世間」と切り離された心の避難地の役割を果たしてもいたように思う。

 だからこそ、そこに身を置く人の多くは、同じコミュニティに属する人の傷や痛みに敏感で、互いの共感を大切にする
 しかし一方で留意が必要なのは、時にその思い遣りは「コミュニティ内の他者に対して共感以外のものを表明することを強く忌避する」という形で表出することもある……ということだ。
 場合によっては「そのような行為/行為者を排除する」というところまで行き着くこともある。

「内」と「外」の峻別、安寧のための排除

 例えば、「政治や社会問題に関する話は対立を生むから、コミュニティ内ではしないでほしい」という声は、比較的よく聞くものだ。これもまた、共感以外を示す/示されることへの忌避感のひとつの表れと言えるだろう。

 あるいは、「政治や社会問題ならばコミュニティ内でも意見を示して良い」としつつも、「共通の愛好対象については、誰かが何らかの見解を示したら、他の者はその人に見える形で異なる見解を示すのは望ましくない」と考える人も居る。

 私の見聞きした範囲では、どちらの主張においても、言葉や態度の攻撃性の有無は考慮されないケースがしばしば見られた。もちろん攻撃性への忌避感情もあるのだが、それ以前に、「意見や立場が異なる」ということ、それを明示されることそのものを強く忌避しているように思われる。

 確かに、話題にはそれぞれ相応しい場とタイミングがある。それは考慮されるべきことだ。
 しかし少なくとも共通の趣味のコミュニティで共通の趣味にまつわる話をするのは、互いに攻撃的でない限りにおいては、妥当なはずだ。
 その意味では、先ほど例に挙げた「社会問題については話して良いが、共通の愛好対象については自由に見解を交わすべきではない」というローカルな主張は、一見奇妙に思える。

 けれども、「限定的な共通項で繋がる小コミュニティの安寧」という観点で見ると、おぼろげに見えてくるものがある。

 つまり、趣味で繋がる人々にとって「社会問題」は本質的に「自分たちのコミュニティの外に由来する問題」なのだ。そのため、これについて意見を述べても「コミュニティ内の共通項」を乱すことには当たらないと見なすことができる。場合によっては、むしろ「コミュニティ外の事象に傷付く私たち」という共感を喚起し、小コミュニティ内の結束を促しさえするかもしれない。

 一部の人々が「社会問題については、コミュニティ内でもオープンに(コミュニティ外の世間と同じルールやマナーの下に)見解を開示してよい」と考えるのは、このような背景によるのではないかと推察する。

 その一方で、共通の愛好対象にまつわる話は、コミュニティ外の事柄として切り離して処理することが難しい。そして、コミュニティ内に帰属する話題で何らかの負荷が生じた場合には、いわば心理的な逃げ場が無くなりかねない。
 そのため、社会問題に対する以上に、より慎重かつ強固に、異なる見解の開示が忌避されるのではないだろうか。

 そこには恐らく、「世間一般」という外部と、そこから隔離しておきたい「私たちのコミュニティ」という内部を峻別しようとする心理、その上で「このコミュニティ内でくらいは、一切のストレスを感じたくない/感じさせたくない」という心理があるように思う。

痛みに対する虞れ

 もちろん、本来的に言えば、異なる見解を持つことも、それを相手に示すことも、相手の見解に対する否定とイコールではない。ましてや相手そのものの否定とは全く異なるものだ。攻撃的な言葉や態度をとることは問題だが、そうでないならば、ごく普通のコミュニケーションにすぎない。

 コミュニケーションとは相互の意思伝達を指す。それはつまり、異なる他者同士が互いの違いを認識し合い、擦り合わせていく営みだ。異なるものが触れ合う以上は、どのような触れ方であろうとも、必然としてそこにはある種の「摩擦」が発生する。場合によっては摩擦に伴う痛みもあるかもしれない。しかしそれは互いに理解し合うために必要なことだし、摩擦すなわち衝突ではない。

 必然としての摩擦をも過度のストレスとして忌避するとなると、コミュニケーションは歪にならざるを得ないように思える。

 けれども、ここで今一度思い出されるのは、みな小さなコミュニティの外に在る巨大で掴みどころのない世間において、すっかり疲弊しているということだ。

 弱ってささくれだった肌に触れられたら、それだけで激しく痛む。同じように、疲弊し傷付いた状態にある者にとっては、「相違を示されること」自体が自身に対する否定や拒絶のように思えてしまったり、そうではないと頭では解りつつ非常な痛みと感じられてしまうこともあるだろう。

 それが「世間から隔絶した(/させておきたい)小さなコミュニティ」に属する人々が、コミュニティ内における「異なる見解の開示」をことさらに忌避する理由ではないだろうか。

 このような外から見ればある種過敏なまでの忌避感は、先述したとおり、コミュニティ内で「共感」がことさらに重視されることと表裏一体になっているのだ。

痛みへの耐性を失った社会

 実のところ、そうした「コミュニケーション上の必然としての痛みの忌避」は、何も特異な小コミュニティにおいてのみ特徴的なわけではない。

 藤田省三の「『安楽』への全体主義」(『全体主義の時代経験』みすず書房 1997年 所収)を参照してみる。
 藤田は、不快の除去ではなく不快との共存こそがあるべき形であると述べる。その上で、挫折、恐怖感、敗北感といった負の要素、つまり「不快なもの」を経験し克服するのでなくそれ自体を「除去」しようとすることこそが、現代の病理であると指摘している。 
 なお、「現代の」とはいっても、この論の初出は1985年「思想の科学」であるから、40年近くも前のことだ。

 あるいはまた、特に「他者との関わり」を重視して人間の精神における言葉・言語活動の重要性を指摘した論として、市村弘正の「精神の現在形」(『増補 「名づけ」の精神史』平凡社ライブラリー 1996年)所収)も想起される。
 ここでもやはり、現代の我々は他者性を恐怖しコンテクストの単一化に走っていることが指摘されていた。 
 こちらも初出は1986年で古いものではあるが、ともあれ、この頃に藤田や市村によって指摘された傾向は、社会の変化と共に加速したように思える。

痛みの撤廃がもたらす歪み

 現代における「痛みの忌避」の過剰な加速と、それによって引き起こされる問題を指摘している書籍として、カロリーヌ・フロストの『「傷つきました」戦争 超過敏世代のデスロード』(堀茂樹/訳 中央公論社 2023年)(以下『傷つきました戦争』と略す)を挙げておきたい。

 本書はフランスの左派論客でありレズビアン(注 同書内の記述に従って、ここではこのような単語を選択する)でもある著者が、「行き過ぎたポリティカルコレクトネス」の現在の様相に警鐘を鳴らすものだ。もちろん、多様性の確保とあらゆる差別の撤廃を強調した上での指摘である。

「傷付ける=悪」と見なし、自らを傷付ける不快要因そのものを排除しなくてはならないとする考え方が先鋭化しすぎると、平等や差別解消の実現よりも、むしろファシズム的弾圧と分断をもたらしてしまう
 フロストはそのことを、既に世界各国で巻き起こっている様々な事例を具体的に挙げて指摘している。

 もう少し噛み砕いてみよう。
 論理ではなく「傷付いた」を絶対的な基準として権利の主張をなすと、一歩誤れば、その主張は容易に、他方の異なる他者を拒む言説や、本来平等であるはずの権利を特定の「私たち」のものとして特権化する言説に変容してしまう。
 何故なら、論理的には責められるべき点のない主張や態度に対しても、人は「傷付く」ことがあるからだ。
 その痛み自体は決して否定されるべきではないが、同時に、論理的に瑕疵の無い言動を「私/私たちを傷付けたから悪だ、無くなるべきだ」と言い出したら、不当な弾圧になってしまう

「傷付いた」を絶対的な基準に据えたそのような主張は、特定の共通項を持つ小さなコミュニティとしての「私たち」と、別のコミュニティの「私たち」との分断や対立をもたらす。
 そして、論理的妥当性を考慮せずにその主張を押し通そうとすれば、今度は自らが不当な弾圧や差別を再生産していくことになる。

 フロストが警鐘を鳴らすのは、概ね以上のようなことである。

 どうだろうか。
 社会全体の「痛みの忌避」の加速がコミュニケーション不全をもたらし、それが人々の「必要な痛みへの耐性」を低下させ、「痛みの忌避」はますます加速し、忌避するあまりに異なる他者との分断と対立を深め、それによって痛みへの耐性を失った人々はますます傷を負い、その痛みでますます…………という悪循環が見えてくるように、私には思える。

つくられた共感のユートピア

 もちろん、この社会には共存すべき痛みではなく、圧倒的に不当な痛みも溢れている。そして人々はその打撃に疲弊している。そうなると、痛みへの耐性はますます低くなっていく。

 フロストは前掲『傷つきました戦争』の中で、ハワイ大学で教鞭をとるイルシャド・マンジの言葉を引用している。これは、一部の学生たちの「過敏なまでの傷つきやすさ」に危機感を覚えて提言したものだという。


「今日、ますます多くの学校が若者たちに他人の気分を害さないためにどうすればよいかを教えているが、それと同時に新しい世代に教えるべきは、そう簡単に気分を害さないでいるためにどうすればいいのかということである。」(イルシャド・マンジ)

カロリーヌ・フロスト『「傷つきました」戦争 超過敏世代のデスロード』(堀茂樹/訳 中央公論社 2023年)


 全くそのとおりだと思うが、私たちの多くは残念ながらそのような教育を受けてきていない。つまり、防御の手段を知らないのだ。
 そのためにますます傷付き、やがて、ある種のシェルターを欲するようになる。
 共感だけに溢れた「私と同じ人たち」のコミュニティ。それはいわば、世間から隔絶した摩擦の無い理想郷だ。

 しかし、本来、そんなものはどこにも無い

 自己とは他者と断絶した個であることによってこそ自己たり得るのだし、逆もまたしかりだ。いわば、他者との絶え間無い断絶を正しく認識し合うことこそが相互理解であり、コミュニケーションであるとも言える。
 他者と他者によって形成される集団にあって、摩擦が生じることは必然だ。
 もし「一切の摩擦の無いコミュニティ」があるとしたら、それは全ての他者が自己と同化した集団だろう。そんな『エヴァンゲリオン』の人類補完計画後みたいな世界は現実には存在し得ないし、あったとして、その世界にはそもそも「集団」自体が存在しないはずだ。

 他者と他者とが存在するままで、それに近い状態を無理につくろうとするならば、恐らく「共感」を制度化・ルール化する必要がある。そして、同化し得ない存在や、何らかの不安や負の感情をもたらす存在を徹底的に排除することによってしか、「心理的摩擦の無い集団」は維持出来ない。
 コミュニティ内のほかの構成者に心理的摩擦が生じないよう、排除のための独自の理屈や手順が用意され、「排除」というこの上ない他者との断絶はコミュニティ内において正当化される。

 制度化された共感は本質的な共感とは異質なものだろうし、ひとたび均質化を阻害する存在と見なされれば、集団から排除されかねない。それは大変に歪で暴力的で、恐ろしいことだ。
 それでも、そうした暴力的断絶の上に成り立つかりそめの凪のほうが、「他者との相違」という小さな断絶を常に受けとめ続ける無常な在り方よりも、ずっと望ましい……と考える人も少なくないのでは、とも思う。

 そしてまさに、『ミッドサマー』におけるホルガ村はそのような「いびつで理想の小コミュニティ」としてダニーの前にたち顕れる。

ホルガ村はどこにでもある

 周囲との痛ましいまでのディスコミュニケーションと、共感を渇望し孤立を恐れるダニーの姿を見ていると、彼女がホルガに居心地の良さを見出してしまう理由がよく解る。
 同時に、ダニーの抱える本質的な問題は、実のところ私たち全てに共通するものであるとも思えてならない。
 そしてまた、ホルガも決して私たちにとって縁遠いものではないように思う。

 程度の差こそあれ、「共感」がゆるやかにルール化され、摩擦を過剰に忌避する小コミュニティの存在は、そう珍しいものでもない。
 あなたも、私も、既にそうした「ユートピア」に身を置いているかもしれない。

 私たちは多分、いつでもダニーになる可能性があるし、ホルガの民になる可能性もあるのだ。

後編に寄せて

 前編、後編に分けてもかなりの分量になってしまった。 後編では、本稿で触れた「痛みの忌避」と「共感の制度化」を軸としてミッドサマーを鑑賞していく。

 まずはここまで。

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