夢をみせるということ

何かを一生懸命にやる事は素晴らしいと思う。
エネルギーを精一杯放出する事は人生にとって、非常に大事な暇つぶしだ。
しかし、何でもいいから、というのは何か引っかかる。情熱が先行して、結局何がしたいのか分からない状態。というより、一生懸命何かに取り組む自分がゴールになっている状態というべきか。


夢を持って生きる、でっかく生きる、そういう類いの事を推奨する影響力のある人物は、どの時代にも定期的に現れてくる気がする。
一歩踏み出す勇気を与え、輝く未来を予見させてくれる。
それは素晴らしい事であると同時に、世の中を幻にしてしまう危険を孕んでいる。
輝かしい現実の横には必ず厳しい現実が横たわっている。悲しいのはそれが見えなくなったり、見ないようにしていたりする事ではないか。



そして非常に胸糞悪い事は、輝かしい未来の幻をみている人間を食い物にする事だ。
もちろん自業自得だ。輝かしい未来の幻を見ようという選択をする事は、人の自由だからだ。
そもそも芸術で飯を食う事等は、それの際たるものなのかもしれない。
だからこそ、人を巻き込む人は、それを背負うことになる。夢を見せようというのなら、その罪を背負うことになるだろう。(それに救われる人ももちろんいるだろう。)

その上で苦悩し、向き合うことが償いなのかもしれない。その罪を忘れ、食い物にしている人間は沢山いる気がするが、自分はそんな人間には絶対になりたくない。



夢をみせて、みせている自分に嫌気がさして。
その矛盾を抱えたまま、それに向き合って作品をつくっている人が、僕は好きだ。そして自分もそうなってゆきたい。いや、そうならざるを得ない。

これは決してネガティブな話ではない。ある意味当然の事を話しているからだ。

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