本:豊饒の海-天人五衰-

この本は、三島由紀夫が人生の終わりに書き残した長編小説、全4巻のうちの4巻、最終巻だ。


1、2、3巻と転生を見守り続けた本多は76歳となり、隠居生活を送っている。
たまたま立ち寄った場所で生まれ変わりの印である、脇の下に三つのホクロをもった少年、安永透と出会う。これまでの2巻、3巻と大きく違うのは、透が生まれ変りの存在なのか、最後まで確信が持てないところにある。実際物語の最後までそれははっきりはしない。

本多は透を養子にとり、常識的価値観を植え付ける教育をすることでこれまで転生してきた主人公たちと違う道を歩ませようとする。


本書の序盤は海の描写が多い。これは透が港で通信員として働いていたことに起因する。透の目から見た海が(いや三島由紀夫の目から見たと言ってもいいかもしれない)非常に細かく描写してあり、まるで目の前に海が広がっているかのようだ。この秒単位ともいえる描写は正にこの浮世を表していると思う。潮の流れ、波の動き、たまに出現する船、太陽に、見事に浮世が重なり合う。

いや、海だけにくくるべきではない。序盤以降も日常を、ある人の目から映る世界を、事細かに描写してゆくのだ。それは本多の目から見た景色の場合もあるし、徹の見た景色の場合もある。
ただそれは全て、言ってしまえば人物は違えど主観が捉えた描写だ。当たり前の事だが、人間は自分の主観を飛び越えて、完全なる客観性を得ることは不可能だ。
僕は、こうして主観的描写を綿密にする事で、自分の認識によってのみ世界が成り立っており、実は世界は実体のない「空」であるという唯識的考え方を浮き彫りにしようとしていると感じた。(唯識については前回の第3巻の感想を参照したり調べたりして欲しい。)


重要なのは、非常に描写が綿密だという点で、これは三島由紀夫の文章の特徴でもあると思うのだが、今回は他作品に比べて特に綿密である気がする。
むしろ通常の作品であれば無駄な部分さえある気がする。

しかし、その無駄な部分が必要な物語だったと言える。唯識の世界に傾倒していくにつれ、その世界を浮き彫りにするには、更に細やかな描写が必要となっていったのだろう。



だがそうして築き上げてきた全ては、物語の最後に会った聡子の言葉によって無に帰する。
一巻で清顕と禁断の恋を終えた後、出家し門跡となった聡子に、本多は約60年ぶりに意を決して会いにゆく。再会を果たし、会話中に松枝清顕(1巻に出て来る転生の始まりとなる人物)の名前を出した本多に対し、聡子は「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」と言い放つのだ。どうやら本当にその名前に覚えがなく、嘘をついているようでもないらしい。

これは簡単に言ってしまえば夢落ちみたいなものなので、初めはかなり困惑した。この結論は逃げなのではないかとさえ思った。もちろん意味はわかる。「空」だと言いたいのだ。ただ単純すぎるのではないかと思ってしまった。

しかし、単純だというにはこの作品が持つ物語は重たすぎる。
この全4巻という壮大な長編の結末がこれなのだ。



この長編を一巻から読んできた人は、本多の人生を、全てではないが見てきたのだ。若い時松枝清顕に出会い、転生するたびにそれを見届けた本多の人生をみてきたのだ。

それだけではない。転生してきた壮絶で美しい4人(3人なのかもしれないが)の人生も見てきたのだ。



それを無に帰する重さたるやなんだろう。
その重みを持たせるためだけに、この劇的なドラマはあったのかもしれない。物語に重みがあるだけ、空虚さは増すのだ。

そして物語だけではない。三島由紀夫本人だって、長い時間と労力を、現実にかけて、この物語を書いてきたはずだ。
そんな、魂をかけて描いてきた物語を無に帰するという事。これ以上に「空」を意識させることはできるのだろうか。



そしてもう一つ重要なことがある。それは三島由紀夫の自死だ。
この作品の原稿の提出日に、三島は自死する。もし今も三島が生き続けていたら、確実にこの物語の捉え方は変わっていただろう。
ここまで何か、大きな意思が含まれているかもしれないと思わせる作品に見えるのは、この出来事が理由のひとつだと言える。
三島由紀夫は自死をすることで、人生をかけてこの物語に意味を持たせた、とまで言うのは言い過ぎであろうか。



この物語と共に三島自身が脱稿し、死に向かったのだろう。その気持ちを考えた時、胸が苦しくなる。なぜならそれは想像を絶する虚無だからだ。

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