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日本人が失いつつある力

「これは追求の時代さんのサイトより」
http://bbs.kyoudoutai.net/blog/2019/01/6401.html
これを読ませていただいたときに、ローカルライフのこの島で、個人個人の自立を目指す自分としてわかりやすく説明しているように感じた。
<転載開始>
社会全体が学歴よりも、本当に必要な能力を求めて人材募集をするようになってきましたが、一部大手企業ではまだまだ学歴偏重が続いているといいます。

豊かさが実現されても尚私権を追い求めた末に、日本人は本来もっていいた力を失いつつあります。
それは、『人の力を引き出す力』

こんな話があります。リンクより
40万人以上が受験する全国模試で10本の指に入るような成績を誇った旧帝大生が、ある避難所でボランティアを始めた。毎日大量に届く救援物資を仕分けし、種類と数量を完全に把握し、被災者に配る量を即座に計算し、不足が予想される物資を他のボランティアに告げ、補給を指示した。その正確無比な活躍を見て、いつしか「歩くコンピューター」とあだ名されるようになった。しかし激務がたたって、10日ほどでぶっ倒れてしまった。

次に物資担当を引き受けたのは、同じ年齢だけれども、若くして建設業を継いだという、高卒の若者。「とても前任者のマネはできません。僕なりのやり方に変えさせてもらっていいですか?」。もちろん、「歩くコンピューター」のマネができる人間なんかいないので、誰も異を唱えなかった。

その若者は物資を種類ごとの「島」に分けた。
インスタントラーメンの島、ミネラルウォーターの島、使い捨てカイロの島。その島が低ければ「あ、調達しなきゃ」というのが一目瞭然。物資の仕分けも簡単で、それぞれの「島」に積めばよいだけ。物資の種類も量も、ザックリとだが誰の目にも分かりやすくなった。

「歩くコンピューター」が健康を回復し、再び救援物資の管理をしようとしたら、その必要もなくなっていた。皆が誰の指示も仰ぐことなく、自主的に仕分けし、不足する物資を調達してくるようになっていたからだ。

学力という意味では「歩くコンピューター」の方がはるかに上だったろう。
記憶力、論理能力、計算能力、そうした「お勉強」の力は、誰よりも卓抜していた。しかし、特別な能力がなくても皆が自立的に判断することができ、自主的に活動し、集団がトータルとして活性化したのは、建設業の若者の提案したシステムの方だった。

個人の能力が優れているよりも、システムとして優れていることの方が大事なのかも。ひとりの能力が輝く一方で他の人たちが指示待ちになってしまう仕組みより、誰もが自主的自立的に能力を発揮する仕組みの方が優れているのかも。そう痛感させられた経験だった。

2001年、私は中国に渡った。中国が現在のように発達し巨大な経済力を示すようになるとは、大半の日本人はまだ信じていなかった。中国の人も、当時、日本人に敬意を抱いていた。その旅先で、興味深いことを聞いた。

「中国人は会社に勤めると、自分の功績を大きく見せるため、『自分がいないと仕事が回らなくなる』ようにしてしまう。そのせいで、その人がいなくなると、どうしたらよいのかさっぱり分からず、大混乱する。その点、日本人は、自分が異動しても問題なく仕事が回るように引き継ぐ。自分にしかできない仕事にするのではなく、誰が取り組んでもそれなりの結果が出る仕組みに変えていく。これを中国人も見習うべきだ」

私はへええ、と驚いた。そして、記憶に刻み込まれた。というのも、それからしばらくして小泉政権がスタートし、「トップダウン」という言葉が流行すると、優秀な人間が「既得権益」を守ろうとする暗愚な凡人たちを怒鳴り散らし、「俺がいなけりゃ回らない」というリーダーシップ(?)を振るう人が日本に増えていったからだ。もしかしたら、今世紀に入って以降は、中国人が日本人化(自分でなくてもシステムが回るようにする)し、日本人が中国人化(自分がいないとシステムが回らないようにする)していった歴史だったのかもしれない。
=引用ここまで=

核家族化が進み、社会でも個人主義が蔓延し私権を追い求めるあまり、日本の『集団での追求力』を失っているのでは?
数十年前には想像しなかった中国が、宇宙開発をはじめ、科学技術の発展が著しい、集団での力が上昇したからかもしれません。

ここ数年で日本は、学歴主義社会の崩壊、本物の追求力への欠乏が顕在化してきています。
今日本の様々な企業でも「チームで仕事をすること」=「チームで考え実行する」ということが行われています。
一つの成果を出すために全部署が連動し、互いに巻き込み合いながらまさに集団で追求している様は高度経済発展中だった昭和の日本のよう。

今まさに激動の時代、『集団で支え合う為の追求力』を高めることができるでしょうか、とくに次代を担う子どもたちの追求心に蓋をせずに、自らも『仲間との追求』の中に身を置いて、追求する姿を見せていくことが、現代の大人に託された重要な役割だと思います。