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自主避難あの日から10年

東日本大震災・東京電力福島原発事故から10年
当時住まいが福島市、実家が宮城県石巻市(写真の右側)
福島に飲食店を営み拠点としながら所属芸能事務所の仕事でも全国を回っていました。
実家が両親共々津波に流され跡形もなく土台だけ残して何もなくなった。
生活の場は福島市で原発の場所から北へ60Km、その年の1月に娘を授かり家族3人で新しい生活が始まった時期であり、そこから夢見る人生は実にワクワクする未来を想像していた。しかし幸せな時間も2ヶ月もしないうちに現実に押し流されていった。娘を入浴させるためにお風呂場に入った瞬間大きく揺れた・・・・・

宮城育ちで地震には慣れており慌てずに対応できるはずだったが、なかなか揺れが収まらず、外からはガラスの割れる音・地鳴り・悲鳴・建物が激しく軋む音
浴槽のお湯は激しく左右に揺られ、震度の大きさが今まで経験したことのない激しい揺れだと認識させる。
幾度となく衝撃を感じながら長い揺れも収まり、抱きかかえたままの娘と妻とユニットバスの中で襲われる恐怖に耐え怪我もなく安堵でほっと息をつき、まずは娘を簡単に入浴させ、外に・・・・・。

ライフラインが止まった状態で、Twitterで石巻の情報が流れてきていないので実家が津波に襲われているなど知る由もなかった。
その日の夜に原発で働く知り合いなどからチェーンメールで「福島の原発が爆発する、今すぐ逃げろ」
普段から原発など関心もなく、その危険性すら認識もしておらず、距離もあるから大丈夫だろうと思っていた。

事故から1ヶ月半後に母子避難3ヶ月後に佐賀県へ家族3人で自主避難
ここに2012年の佐賀県の原発裁判で意見陳述書させていただいた。
大災害原発事故10年の節目の記録として載せておきます。(個人情報伏せ字)

平成23年(ワ)第812号 九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件 
第1回口頭弁論(2012年4月13日)における意見陳述。
意見陳述書
佐賀地方裁判所 御中
2012年4月13日
住所 佐賀県(避難先)
氏名 〇〇○○〇〇
私は〇〇〇〇と申します。
 昨年の東日本大震災により福島県の東京電力福島第一原発事故に生命(いのち)の危険を感じ佐賀県へ福島市から避難をしました。

 私たち夫婦は、昨年1月29日に娘を授かりました。
 2011年3月11日震災時まで、まだ外へも出た事の無い、生後1ヶ月半の我が子の健康と、そして私たちも同じく健康被害を深刻に受け止め夫婦で相談し、5月に妻と娘を新潟県湯沢へ母子避難を急いでさせました。
 放射能に汚染された福島市で、認識と決断まで2ヶ月かかり事の重大さに気づきました。
  なにより心配したのは産まれたばかりの子供の健康、これからこの福島の放射能に汚染された土地で子供を育てられないと判断し、6月17日福島から新潟経由 で家族を迎えに行き、そのまま1500キロの道のりをクルマで子供の荷物を優先に、私たち夫婦は夏服だけの少ない荷物で佐賀県鳥栖市へ避難致しました。
 福島県福島市は国の避難指定地域ではありませんが、原発から直線距離60キロ。ちょうどここ、佐賀市も玄海原発から60キロで同じ様な環境です。
 避難途中新潟を過ぎてサービスエリアで子供をだっこして、初めて外の空気や暖かい陽射しを浴びた娘の笑顔に夫婦で顔を見合わせ、避難したのは正しかったと感じました。

私が産まれたのは
昭和〇〇年○月宮城県石巻市で産まれました、その実家は昨年の震災で津波に家もろとも両親も、のみ込まれ行方不明のままです。あの未曾有の大地震と津波により人生が思いもよらない事態となりました。
 当時私は福島市で飲食店を経営しており、昨年6月から一時閉店とし避難しました。知り合いや仲間に放射能の危険を話しても口論になったり、政府が危険と云っていないなど、個人間では認識に大きな隔たりがありました。
 避難を口にし「自分たち家族だけ健康になって下さい」「福島から逃げるんですか?県外から来た人間は捨てるのも早いですね」などいわれなき誹謗中傷も受けました。
 結局長年掛けて必死で努力して来た仕事も諦めなければいけなくなりました、それは自分自身の夢の集大成である店を諦めなければいけない事でした。

避難の理由は
 地震の被害でも津波の被害でもなく東京電力の福島第一原発事故の放射能汚染が一番の原因です。
 震災後当時、ライフラインがストップした後、 東北沿岸部の津波や3月12日福島原発1号機の爆発などの情報はクルマのラジオとインターネットから知りました。津波被害の実家の事が気がかりで、地震からしばらく実家へと釘付けの状態でした。
  福島は3月15日まで3基の原発が爆発しました。ライフラインがストップしたなか、その15日まで外に水を貰いにいったり、買い物をするためスーパーの店 先に並んだりと、放射能の危険など何も知らずに家族を代表して外に出歩いていました。この時はまだ福島から避難するなど考えもしていませんでした。
 原発事故の爆発で最初に耳にしたのは「子供に悪影響を及ぼす」と云うものでした。
 当初私は原子力発電所が福島にある事は知っていましたが、関心も知識もありませんでした。放射能・セシウム・ストロンチウム・ガンマ線・アルファー線・ガイガーカウンター、これらを耳にするのも初めてであり、なんの事なのかさえ私はあまりよく理解していませんでした。
 しかし25年前のチェルノブイリ原発事故資料を見て愕然としました。
 福島県でどんな事が起きているのかようやく理解をしました。
「ただちに健康に影響は無い」との時の大臣の言葉に疑問を抱き、調べられるだけ調べ、政府の発表や報道などテレビへの疑心も強まり、海外の専門家の言葉を信じる様になっていました。
  チェルノブイリではホットスポットと呼ばれる250キロ、300キロ離れた場所まで健康被害が増えたと書いてあり、子供は甲状線癌の症状が年数が立つにつ れ増加し、白血病なども増え、若い少年少女が亡くなっているデータを知りました、そしていまなお、ガンなどで多くの方が亡くなり続けたり、障害を持った子 供が産まれたりしているといいます。
 その原因とされる専門家の研究では放射能の空間線量と内部被曝であると言われています。
 本来放射能管理区域の空間線量の数値が我が国、日本の法律で1時間辺り0.6マイクロシーベルトとなっています。これは原発や核施設がある場所の法律で18歳未満の労働の禁止や立ち入りには厳重な管理が必要とされる場所です。
  しかし3月から4月の福島市の空間線量は1時間あたり20~24マイクロシーベルトとNHKの天気予報で一緒に発表されていました。しかし県からも市から も危険であるとの告知は行われず、全くと言っていいほど市民へ注意や危険を知らせる街宣車などでアナウンスされることはありませんでした。
 そして政府は年間20ミリシーベルトを暫定基準とすると発表しました。
 その基準で福島の子供達は大丈夫なのか?
 何故政府は避難勧告を30キロにとどめているのか?
 アメリカは80キロ圏内から離れろと、フランスは100キロ、ドイツでは東京も避難が必要と各国の放射能や原発の専門家が指摘しておりました。日本はロシアよりも狭く、狭い場所に人口が過密している為、むしろ戦後最大の原発事故になるだろうと思いました。
 26年経った今でも、チェルノブイリでは立ち入る事さえ出来ないでいます。チェルノブイリは1つの原子炉の原発事故で1ヶ月で石棺という迅速な対策をしました。福島原発は4つの原子炉が、冷やすだけで、ほかは手をつけられない状態で、もう1年が過ぎました。
 その後の対策を見ても、とんでもない事態がこの国で起きていると実感しました。

避難から今日まで
 原発事故による放射能汚染で人生が狂わされ、新しい土地でまた一からやり直さなければいけない、経済的、精神的にとてもいいつくせないほど辛く悲しい1年あまりでした。
 妻は生後間もない育児を、両親や祖父母の協力を貰えなくなりました。
 孫の成長を楽しみに側で手助けして育児を出来なくなった両親
 生まれ育った故郷から遠ざけられた知り合いも居ない妻のかなしみ
 私の店を心の拠り所としていた若い世代の仲間やお客様の失望と私の絶望
 今も福島に住む方と認識の違いから、 福島での結婚式に招待されて、空間線量や出される料理にも気を遣い、出席する気持ちにもなれず、また親戚が亡くなり葬式に参列出来ないなど精神的苦痛を毎日味わっています。
 なにげない日常の楽しかった人生をともにした仲間との語らいを無くした事も引き裂かれた思いです。ともに福島各地から避難した知り合いとは全国へバラバラになり、お互いの夢や希望まで失われ、大切な時間まで奪われました。
 放射能は目に見えず、臭いも無く静かに忍び寄る非常に怖いものです。
 1年が経ち妻の家族との話から、福島の安全と云われる方の意味は、安全と信じたいとの思いであります。政府は避難地域など危険な地域を指定してくれれば避難すると云っています。
今回の事故で
 今までどれだけ危険な原発に頼って来たのか、無関心だった事を恥ずかしく思います。
 原発がなければ電気が足りなくなるとのキャンペーンも、現実原発が止まっても、原子力発電よりは安全な火力発電など努力すれば停電など起きず、むしろ過剰に電気を作り出していたんだと思います。
 たかが発電を原子力、いわば核を平和利用などといいながら国策として国は戦後から押し進めて参りました。しかしひとたび事故が起きれば狭い日本には向かないシステムであると云わざるを得ません。
 放射能は街を壊し、経済を破壊し土地も汚染し一次産業を壊滅へと向かわせました。そして近隣県まで放射能汚染は影響を与え、これから何年も苦しむ実害となりました。そこで暮らしていた私たちの生活も人生も狂わせてしまいました。
一つの産業でここまで破壊するものが他にあるのでしょうか?
 原発の技術者は安全といいながら、結局核の暴走を今現在も停める事は不可能で、冷やすだけであります。震災以降もつづくまだまだ大きな地震、またいつ事態が急変し東日本へ莫大な損害を与えるのか心配でなりません。
  国も経済界も原子力ムラと云われる、お金や利権でしか物事を判断出来なくなり、国は生命や財産を守るべき義務をなにひとつ果たしておりません。軽微や重大 な原発事故は過去にも起きていますが、県への報告が遅れたり、隠蔽がなされたり、自分たちに都合がいいように操作をしていた事実も沢山あります。
 東京電力も企業責任としての事故への謝罪や対応もなにひとつ迅速に対応しておらず、あまりにも理不尽な行為に怒りさえ覚えます。数年後福島から多くの健康被害が起こると云われています、避難した私たちも被曝者として生きなければいけません。
 子供が私より先に死ぬなんて事があったらどうしたらいいのでしょうか?
 国は責任をとってくれるのか?
 東京電力はどう償ってくれるのか?
 水俣病の裁判を見る限り、同じ様に何十年と闘っていかなければいけない事になるのでしょうか?
 多くの不安にかられながらこれから先、生きなければいけません。

 原発がなければ私たち家族の人生はこうにはなりませんでした。
 こんなに危険な核で電気を作る必要がどこにあるのでしょうか?
  今や原発施設がある事は、その村や町の問題ではなく、隣の県まで考えた関与が必要と思われます。避難先であるここ佐賀県も原発立地県であります。福島と同 じ老朽化した原発、プルサーマルと云う燃料の同じ原発もあります。現在定期検査で止まっていますが、もう二度と動かさない事を祈るばかりです。
 しかし古川県知事は昨年から嘘と偽りの弁明で原発利権に関わる事が明るみに出ました。そんな県知事の判断で再稼働し事故が起きたらと危惧します。

 この街で平和に暮らしたい、安心して暮らしたいと私の周りでは誰しも思っています。
 もう危険な古い発電方法の原発で電気を作らないで欲しい。
福島が原発の恐ろしさを物語っています。福島の事故を教訓として学ぶならば「原発は人間と共存は不可能であり、ただちに放棄しなければいけない」と考えるのが普通の人間の考えです。
 私たち大人は未来ある子供達を危険から守らなければいけません、そしてその先の日本人へ危険なものを無理矢理押し付ける様な事をしてはいけないと思います。
 原発に頼る電気の発電方法を、新エネルギーの発電への転換という形で、未来へ届けなければいけません。日本には誇るべき新エネルギー技術も沢山あります、そして幸いな事に国土面積は先進国でも小さい面積であり大国と違い、すぐに実現可能だと思っています。
 それが福島原発事故を経験した国民の賢明な判断だと思います。事故が起きれば被害は何十年、何百年とその土地を使えなくします。経済よりも、そこで暮らす人々の安心と安全を優先すべき福島の教訓ではないでしょうか?

 この裁判で県民や隣県の方々が一日も早く安心して生活出来る環境と、私たち夫婦の子供が安心安全な佐賀へ避難した事へ感謝出来る様になることを希望します。
 よろしくお願い申し上げます。