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私は自己肯定感が低い。

私は自己肯定感が低い。


これは数年の悩みとして、私の腹の奥底に沈澱している。
洗い流される様子はいまのところない。

しかし、ふと思ったが私が子どもの頃にはあまりこの言葉は耳にしなかったように思う。単純に興味が向かなかっただけかもしれないが、物心ついてからもあまりTVや新聞などのメディアでも目に触れなかったように感じる。

気になってチラと調べてみた。
すると、自己肯定感といった言葉が日本で生まれて間もない言葉だということがわかった。

1965年にアメリカの学者が提唱した「Self-esteem」という概念を、日本の研究者の間では「自尊感情」という日本語に訳したそうだ。

Self-esteem
直訳すると自尊心。海外におけるこの言葉は自身の弱みも含めて、自分自身であると肯定する意味あいである。

引用元はググってくれ

しかし、日本人は自身の弱みを受け入れられず、だめだこりゃと折れてしまうことが多いそうだ。これは国民性のようだ。

それに対して、「自分を肯定的に受け入れよう」という意味として生まれたのが自己肯定感という言葉だそうだ。

なんだ、ポジティブな言葉だったのか。

ではなぜ、私はこの言葉にこんなに苦しめられているのだろう。


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・ポジティブな言葉にトゲを生やしたのは誰だ

「自己肯定感」で検索すれば山のように出てくるのが、

いかに自己肯定感を高めるか、あるいは自己肯定感の低い人の特徴、といったものだ。まるで、自己肯定感は高くなければいけない、低い人は怠慢だとでもいうように感じた。

自己啓発セミナーや自己啓発本、ビジネス本やらなんちゃらかんちゃら。自己肯定感を上げる方法はいくらでもあるよ?なんでしないの?

世間はそのように私に対して言っているように感じる。

実に窮屈だ。
本来はポジティブな言葉であったはずが、チクチクとトゲを生やしたのは国民性を利用して何らかの利益を得ようとした人たちなのではないか。

実際には、自尊心が高い人と自尊心が低い人でどちらが優れているか学術的なデータはとれていないだとか。

なんだそりゃ。

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・テーマを修正しよう

重要なのは別のところではないか。

もともとの言葉の成り立ちに立ち返り、自分の悪いところも良いところもひっくるめて私という人間であることを、受け入れる努力が何より必要なのではないか。

決してマルチタスクができるようになったり、新たな習慣を意欲的に取り入れられるだとか、そのような自他ともに認めらる肯定される存在になる努力などではない。

自分という人間を受け入れること。

それができないのは思い描くビジョンや自己評価と現実のギャップのせいだろう。それを少しずつ修正していくことが自分という人間を受け入れる歩みになのだろう。

しかし、なにより自己肯定感という言葉を乱暴に振り回している誰かを見ない、耳を傾けない。

そういった存在によって、悪しきフィルターを通して自己肯定感という言葉見ない。私はバカなりに学んだ、自己肯定感はポジティブな言葉だ。


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・さいごに

私は自己肯定感が低い。
30過ぎてまだ自分という人間を受け入れられていない。

だが私はこれから頭が悪いなりに

正しいと思う歩みで

自己肯定感を高めていきたい。

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