【小説】涙する太陽 ②

 今夜から、日課としていた素振りが、竹刀から金属製のバットへと入れ替わった。
 今は便利な世の中で、スマホを少し弄れば、野球が上手いと自負している者が、素振りをしている動画を見ることができる。おまけに解説付きで、素人である俺にも理解し易いものだった。
 俺はそれに倣いながら、素振りを三十回ほど繰り返す。一回一回素振りをする内に、数秒前の自分よりも上達しているように感じた。最近の剣道の練習では感じることのできない充実感だった。
 中学の全国大会に出場した俺には、日々の剣道の練習は、刀を研ぐことに似ていた。
 刃こぼれを直すように、乱れた姿勢や構えを正し、神経を研ぎ澄ませる。そこに楽しさや満足感などは存在せず、それが自分に課せられた使命であるように思っていた。
 俺は、物心がつく頃から竹刀を握っていた。その頃には当然、上達する喜びなどを感じていたはずだが、昔のこと過ぎて覚えていない。だからこのような気持ちは初めてに等しかった。楽しくて仕方が無い。俺は夢中になってバットを振り続けた。
「本当にそれを始めたのか」
 周りの気配を感じ取られないほどに集中していたようだ。声のした方に顔を向けると、父が庭から家の中に通じる掃き出し窓に、手を掛けて立っていた。
「……はい」
 素振りをした手を止めて、弱い返事を返す。四月の、まだ春になったばかりの少し冷たい夜風が、汗を含んだポロシャツを通じ、俺から体温を奪っていくのを感じる。
「お前には、そんなものより竹刀の方が似合っている」
 父はそれだけ言い残すと、家の奥へと消えた。俺はそれを酷いとは思わない。なぜなら、父の心無い態度も、自分が父を裏切ったせいだと分かっていたから。

 父は、人生を剣道に捧げていた。父が剣道以外に夢中になっているところを自分は知らない。
 幼い頃の俺が、ある時父に聞いた。「いつから剣道を始めたの?」と。すると父は答えた。「気付いた時には竹刀を握っていたよ」と。俺は父を、武士のような人だと思った。生まれてくる時代が違ったのだと。
 父は、学生時代に撮りためていた、剣道の試合動画を見ながら晩酌することが日課だった。父の試合が主だったが、たまに他校同士の試合も流れた。
「あの一瞬の読み合いが堪らないんだ。技が決まった時の快感、未だに忘れられないな」
 酔った父は、決まってこの台詞を吐いた。少年のような笑顔で語る父のことを、幼い俺は好きだった。
 物心付いた頃から、俺は剣道を始めたわけだが、それは父に言われたからじゃない。毎日父と、剣道の試合動画を見る内に、自分も剣道をやりたくなった。だから始めた。
 俺が初めて道着と袴を身に付けた時、父は嬉しそうに俺に言った。「似合っている」と。その時の照れ臭そうな父の顔を、俺は一度も忘れたことがない。
 中学最後の大会が終了したその日の夜、帰宅したばかりの父を、俺は畏まりながら呼び止めた。
「俺……、高校に入ったら野球をやります」
 恐る恐る、しかしはっきりと伝えた。聞き返されて、二度も言える自信がなかったからだ。
 父は俺を見つめながら無言になった。情報の処理に時間がかかっているようだった。その間が恐ろしくて、「嘘です!」と何度も言いかけた。その度に歯を食いしばって言うのを制止した。
 別に父の断りが無くとも、剣道を辞めて野球を始めても良かった。しかし、父のことを思うと、なぜか筋を通すのが賢明であると感じた。
「……お前は剣道をやるべきだ」
 やっと、この状況を飲み込めた父の一言目は、野球への反対だった。
 賛成してもらえなかった腹立たしさや、悲しさは生まれなかった。生じたのは父を裏切ることの申し訳なさだけで、父に認めてもらえるなんて、これっぽっちも思っていなかった。
「父さん……、俺はどうしても野球がやりたいんです」
 父に反対されて、簡単に諦める程度の弱い意志で挑んじゃいない。もう既に気持ちは固まっていた。親の反対を押し切って結婚するのは、こういう気持ちなのかもしれない。
 父が自分を見る。何も言わないが、目線を逸らしてはいけないのだと悟り、俺も父の目を真っ直ぐに見つめた。父は無表情のままだった。しかし不思議と、父の悲しみが伝わってくるようだった。
「お前は父さんの誇りだ」
 昔に一度、俺がある剣道の試合で優勝した時に、喜ぶ父が俺に言った。俺も、父の期待を背負うことは満更でもなかったし、誰かに期待されることに悪い気はしなかった。
 今更ながら、父を裏切ることの罪悪感が、凄まじいものであることに気付かされた。父の期待を背負うということが、どれだけ重いのかを知った。ただの一言二言の会話を交わしただけで断ち切れるようなものではなかった。俺の考えが甘過ぎた。

 あれが、どういう終わりを迎えたのか記憶に無い。忘れようと何度も試みた結果、本当に記憶から消えてしまった。分かっていることは、あれをきっかけに、父との会話が極端に減ったことだ。
 バットのグリップを握り直す。思い出したくない過去を頭から振り払うために、思い切りの素振りを試みる。しかし突如、遠くで俺を呼ぶ声がしてその機会を失った。きっとあの声は、俺に似ても似つかない、二つ年下の妹の声だ。
 空を見上げる。そこには大きく欠けた月が浮かんでいた。欠けてもやがて元に戻る月が、俺には堪らない程に羨ましかった

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