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#1 地域プロジェクトマネージャー


1. あいさつ

はじめまして。2024年5月から長崎県東彼杵町で地域プロジェクトマネージャー(以下、プロマネ)に着任した小森です。「親近感持ちたいので何てお呼びしたらいいですか?」と聞かれることがありますが、「小森さん」、「たっちゃん」、「たつきさん(くん)」、「こもにゃーん」、「トーマス」…お好きなように呼んでください。
任期は最大3年。地域おこし協力隊(以下、協力隊)とよく混同されがちですが、協力隊の任務は現場最前線である一方、プロマネは少し視座を高くして全体俯瞰で行政から与えられたプロジェクトを動かすポジションです。
野球で言えば協力隊は選手、プロマネは参謀を掌るヘッドコーチです。3年でチームを優勝させるのか、優勝できるようなチームに育成をするのか、Aクラスに常連入りするのか…、はたまた…。

2. そうだ ひがしそのぎ 行こう!

私の頭の中にこの情景が浮かんだ

"縁もゆかりもない遠い東彼杵で40代オッサンの挑戦が始まった" といかにもっぽく書きたいところですが、実は高校まで長崎県佐世保市で過ごしていたので、私はただのIターン&Uターン組です。
私が東彼杵という町を最初に意識したのは幼少の頃、何かの帰りで父の運転する車に乗って国道34号線を大村から佐世保方面に向かってJR千綿駅近くを走っていたときのこと。
「この大村湾の景色、きれいだよな。」

JR千綿駅ホームから望む大村湾
この景色は父から子へ、子から孫へ伝えている。


と普段あまり喋らない父がボソッと口にした一言が、40年近く経った今でも私の心に残っているのですから、父の言葉と目の前に広がる大村湾の景色が相当深く刺さったのだと思います。12年前に他界した母が生前よく東彼杵に行っていた(何をしていたのかは不明)という話も後から聞いていたので、知らず知らずのうちに両親が東彼杵に道を付けてくれたのかもしれません。そんなご縁もあっていつしか長崎に戻りたい、可能であれば東彼杵に住みたいと思うようになりました。

とは言え、私は半導体業界でゴリゴリの営業をしていた人間です。B to B(Business to Business)で人並みの積み上げてきた経験がこんな過疎地で役に立つイメージが全くありません。戻るなら農業でもやるか、起業するかくらいで物事を考えていたわけです。
ところが、アンテナを張っていると色んな出会いが準備されているわけで…、
「B to B スキルこそ地方創生の武器」
「行政は税収に頼った守りではなく、手広い人脈で事業開発する攻め手が必要」
「地方の収入水準を上げたいなら行政側から人の暮らしを見たらいい」
こうしたアドバイスを聞いているうちに、行政で町づくりに関わってみようかなという思いがどんどん湧いてきました。
さらに私は膀胱癌との出会い(罹患)と別れ(手術)もあり(今思えば半導体業界の仕事は好きだったけれど強烈なストレスだった)、この先の人生を悩みに悩んで、家族に相談し、慣れ親しんだ半導体業界を離れて自分がやりたいと思った町づくり仕事に飛び込む決意に至り、ご縁あって念願の東彼杵町に来ることになりました。

湯河原温泉から見た2024年元旦の初日の出。
家族に転職の思いを語り、背中を押してもらった感謝は生涯の宝。

3. 東彼杵の家

住まいの話をしましょう。1DKくらいのアパートで良かったのですが、ここは東彼杵。都心部と違い単身者用のアパートは残念ながらほぼありません。これまた不思議な出会いで私は6LDKの二階建て立派な古民家に住むことになったのです。
「掃除が大変」
「流石に一人暮らしには大き過ぎる」
と最初は笑いの自虐ネタにしてましたが、先日の台風10号の時、
「風雨を凌ぐ屋根があることがありがたい」
と、当たり前のことに少し感謝が向けられるようになりました。
ちなみに住み初めの頃、6本足、8本足、多足類のお客様が家の中をチョロチョロしていましたが、最近は4本足のヤモリさん、ネズミさん、ハクビシンさんがだいぶ活躍され6本以上は駆逐されています。ありがとうね。

おっさんひとり、6LDKに。役場まで通勤徒歩10分。
ちなみにサラリーマン時代は徒歩15分+電車80分+徒歩15分だった。

4. 次回予告

47歳オッサンの戦いが始まりました。山本昌は50歳まで現役(わかる人、友達になれそう)で輝いていたのですから、私にもきっとできるはず。

次回は、ちょっと本気を出して東彼杵(と長崎県)の現状(As is)と私が目指す東彼杵(と長崎県)のありたい姿(To be)を考えてみます。


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