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ありのまま

「ありのまま」とはどういうことか考える時、植物、とりわけ樹木は私の最も信頼できる先生だ。彼らには一切の我執、欲、雑念の欠片も見出せない。与えこそすれ、奪うことなど絶対にない。そして何より、静かだ。沈黙の智慧そのものである。

これほど身近で「ありのまま」を体現している存在に、どうして今まで目を向けて来なかったのだろう。どれも初めは豆粒ほどの小さな種だったものがこんなにも大きく育ち、堂々と立っている。何ものにも囚われることのない、ありのままの生死の姿。それは、どこまでも力強く美しい。

「あなたはあなたらしく、ありのままでいいんだよ」そんな言葉をよく耳にする。どう受け止めればよいのかわからない。そう言われれば言われるほど見えてくるもの。ありのままの自分の無知、不実、驕慢、残虐性、狡猾さ。それら一切を無自覚に、ただ自我に流され生きてきた。そんな自分を省みようとすらしなかった。ありのままの私は、救いようもない恥ずかしい私。

「ありのままでいい」とは、覚者が凡夫を導く言葉であって、断じて凡夫が凡夫を慰める言葉であってはならない。それは、こんな私の本質を底の底まで見抜かれた上で「そんなお前だからこそ必ず救う」という弥陀如来の深い慈悲の言葉だ。「私はありのままでいいんだ」と自分自身が、凡夫の智慧で納得するということでは決してない。「ありのまま」で良いはずがないのだ。自分は何もできない無力な凡夫であるという自覚は、あくまで出発点に過ぎない。そこに安住するのではなく、では自分には何ができるだろうという実践への決意が試されてこそ、自覚は初めて自覚となるのである。


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