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「幸福」という言葉

岡本太郎氏は自身の著書【自分の中に毒を持て】に「僕は幸福という言葉が大嫌いだ」と書いていた。ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだと。私はこの言葉に衝撃を受けたと同時に、確かにその通りだと頷いた。

個人としての生活が安定し、充実し、不安がなければそれは「幸福」な状態なのかもしれない。しかし、それはあくまで個人レベル、その個人の家族レベル、その個人が帰属する社会レベルだけでの話であって、その限定的な「幸福」が成り立つためには、どれだけの犠牲が払われているだろうか。そこに思いを巡らせれば、決して「幸福」などとは言っておれなくなるだろう。

これは何も人間の世界だけでの話ではない。仏教においては、すべての命は平等であると説かれている。仏の言葉は真理であり、そこに嘘はない。すべての命は平等。私たちはこの事実をもっと真剣に受け止めなければならない。それはつまり、あなたの愛しい子供の命と、汚水に群がるコバエの命も全く平等だということだ。そう思えるとか思えないとか「受け止める側」の感情論のような話ではなく、これは真理であり、事実なのだ。

私たちは、日常生活において具体的に、私が今日一日命を繋ぎとめるために犠牲になった命とは何かを考えなければならない。それはある意味、生かされているこの命と、犠牲になってくれた無数の命に感謝するということではあるけれども、それだけでは不十分であろう。いやむしろ感謝すらできない、犠牲を犠牲とも思わない「鈍感」で「冷淡」な自分自身の姿を見つめていくことこそ肝要ではなかろうか。

他者の命を奪うことでしか自分の命を維持させることはできない。これが事実である。菜食主義者はなるほど自分たちは直接生き物の命は口にしないと主張するだろう。しかし、彼らは野菜を育て収穫するまでの過程で、どれほど多くの地中の生物、虫たちが犠牲になっているかを知るべきであろう。命に人一倍敏感な彼らであればこそ、それは自分たちには関係のないことだとは決して言えないはずだ。

どんなにきれいごとを並べても、私たち一人ひとりは例外なく奪い奪われる世界で生きている。あるものからすれば「幸福」な世界も、別のあるものからすれば「地獄」なのである。このような世界で、「幸福」を追求することが本当に優先すべきことなのか、その先に平和はあるのか、今一度考えてみる必要があるだろう。自分の勝手な都合で線引きした範囲内において「幸福」が達成されればそれで良いという偏狭な考えに陥ってはいないだろうか。

私たちは人間生活を向上させ、豊かさとは何か考えるまでの豊かさを享受している。そのような人生の中で、生かされているこの命を以て、しあわせとは何か、豊かさとは何かを問うのではなく、むしろ一人ひとりが様々なかたちで謳歌しているこのしあわせに、この豊かさに、私たち自身が問われているのではないだろうか。

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