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現代人の迷い


私たち現代人は何事にも懐疑的でありますが、科学という後ろ盾があるだけで驚くほど盲信的になるのは不思議なことです。神も仏も信じない。天国も地獄も信じない。輪廻転生も信じない。死んだらあとは無になるだけ。その割に、ビッグバンが起こって宇宙が誕生した、地球上には昔恐竜が住んでいた、猿が進化して人間になった、なんてことは結構普通に信じられているようです。学校でそう教わるからなのでしょうか。理由はわかりません。私は「非科学的なこと」は一切信じない、と言われる方もおられますが、では何をもってその科学的根拠が真実であると言い切れるのでしょうか。それこそビッグバンや恐竜や進化をその目で見てきたわけでもないのに。

科学的に証明されていることが真実で、非科学的なことは虚構だという一律的な捉え方は、私たち現代人の大きな迷いだと言えます。今から500年後、1,000年後、1万年後の世界において、私たちが今信じている科学的根拠というものがどれほど確かなものか、誰も証明することはできません。多くの科学者たちは科学が万能ではないということをはっきりとわかっているからこそ、日々研鑽を重ね、探究を続けているのだと思います。現在というものはあくまで通過点に過ぎません。そして私たち人類は、どれだけ発展し進歩しようと、永遠に通過点を生きるしかできないのです。辿り着くということがないのです。

仏教は、私たちが何をもって物事を真実と捉えているのかという物差しを明らかにしてくれます。そしてその物差し自体が「そもそも大きな迷いなのではないか?」という疑問を示してくれるのです。よくよく考えるとこれは凄いことですね。一度この疑問を得られると、今まで見えなかった世界が次々と見えてきます。認識がぐるりと転換されるのです。そして最もはっきり見えてくること。それは、自分は何も見えていなかったのだというある種、残酷な事実です。自分自身の傲慢、自惚れ心を恥じ、深く反省することになるのです。この内省のプロセスに終わりはなく、死ぬまで続くでしょう。これは自己に対する自覚の問題です。

「自分を信じて」とか「自分らしく生きなさい」とか、そんな言葉に囲まれて私たちは育ってきました。それが絶対的な価値のように教えられ、そう信じてきました。果たしてこの「物差し」は本当に大丈夫でしょうか?生死を生と死に分断し、殊更に生の部分にのみ光を当てようとする傾向があります。それが現代社会の価値の基盤になっているという事実をまず認識しなければなりません。豊かさの代償として私たちは「自分」という虚構を追い求める「生き方」を運命付けられているのかも知れません。死を敢えて「暮らし」から遠ざけることで、私たちはどこまでも死に鈍感になってしまっています。そして突如訪れる死に直面した時、恐怖し、嘆き、祈り、諦めることくらいしか私たちにはできないのです。

「人は生かされて生きている」と言われる人もいます。しかし、自分は100%生かされている身であって自分の力に頼るところなど0%なのだと本当に思っているでしょうか?生かされてもいるが、自分の力でも生きている。だいたいはそういう思いが自然なのではないでしょうか。一生懸命働いているし、努力もしてきた。それは事実であり、そういう思いを決して否定するつもりもありません。だた、実はそれすらも迷いであるのではないかという可能性を捨てないでほしいのです。

本当の意味で自分は生かされているのだと直観したとき初めて「自分は何のために生まれてきたのか」という根源的な問いにぶち当たるのです。そこから長い思索の旅が始まるのです。 現代人の迷いとは、目の前で起こる現象のみを事実と捉え、生きることに悩み、苦しみ、時に慢心し、この大切な問いを得ることを自ら拒んでいることではないでしょうか。本当に解決すべき問題が何なのかもわからないままで。


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