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仏教的視点から観たコロナワクチン接種の是非


こんにちは、東野たまです。以前noteで、問題解決について以下のつぶやきを投稿させていただきました。

今回は、これがどういうことなのか、具体的事象に当てはめながら解説したいと思います。現在日本でも新型コロナウイルスの新規感染者数が再び急増している状況です。ここで私たちの大きな関心事と言えば、

コロナワクチン、打つ?打たない?ホントに大丈夫??

ということではないでしょうか。ワクチンを打つべきか・打たないべきかでこの問題を捉えた場合、先に挙げた二つの問題解決方法のひとつ目、その問題に正しい答えが示されるかどうかが焦点になるでしょう。つまり、リスクやメリット・デメリットを総合的に考慮した上で、打つ・打たない、どちらの選択が正解なのかということです。正しく情報収集し、自分自身でしっかりと検討した上で最終的に判断しましょう、ということですね。

では、私たちはその選択が正しいか(正しかったか)どうかをどのように判断するでしょうか?様々な検証方法があると思いますが、個々人の心情としては、自分のその選択に後々後悔するかしないかだと思います。少し極端な例ですが、5年後、10年後にワクチンを接種したことが原因で、もしも不妊、発ガン、失明などの重大な副反応が現れたとすれば、多くの人が「やっぱり打たなければよかった」と後悔するでしょう(もちろんこのようなことが起こる可能性が確認されたわけではありません)。反対に、打たずにコロナに感染した、もしくは重篤な後遺症が残った、最悪の場合、死亡したとなれば、今度は打たなかったことを後悔するでしょう。尤も死亡したあとでは後悔することもできませんが。

打つ・打たないどちらにせよ、個人に起こり得る最悪の事態はやはり「死」ではないでしょうか。その次に、一生治らない重篤な後遺症や重大な疾患が発症すること。これらのリスクを如何に回避できるかがポイントとなるでしょう。ワクチン接種による高熱、頭痛などの一時的な副反応の有無を最も重大視している人は少ないと思います。

いずれの選択を取ったにせよ、結果的に我が身に何か重大な不都合が起こった場合、多くの人はやはり後悔するでしょう。その状況に直面した時、もしその選択をしなかったとしたら、もっとひどいことが起こっていたかも知れない。だからこの選択は正しかったのだとはなかなか考えられないものです。何も起こらなければ結果的にそれが正解だったと思えるのでしょうが、不確かな情報しかない中で、そこまで予め見極めて判断することは非常に難しいでしょう。つまりこの場合、どちらの選択肢を選んだとしても、何らかの不安要素はどうしても残ってしまう=後悔する可能性があるということです。

ではここで、もうひとつの問題解決方法、「その問題が最早問題でなくなる」とはどういうことか考えてみたいと思います。

この場合、そもそも打つ・打たないどちらが正解なのかということを問うのではなく、自分の選択によって後々我が身にどのような事態が起ころうとも、それを受け入れることができるかどうかということが問われるのです。つまり「あー打っておけば・・・」「やっぱり打たないでおけば・・・」と後悔することがないということです。

常日頃から「いつ死んでも後悔はない」という心持ちで生きていれば、人生で想定される最悪の事態である「死」そのものが問題ではなくなります。もちろんだからと言って死に急ぐ必要も無いですし、「生」への執着が完全に無くなるというようなことを言っているわけでもありません。

死は私たち全員に必ず訪れる確実な未来です。しかも残念なことに、私たちはそれがいつどのようなかたちで我が身に訪れるのかを知ることができません。できる限り死を先延ばしする努力をすることは可能でしょう。ワクチンというものも究極的にはその目的のための一手段だと言えます。しかし、残酷なことに、時間は誰にとっても確実に死へ向かって刻々と進んでおります。ワクチンを打ったからといってそれを止めることも回避することもできません。ではその死そのものをすでにしてこの身に常駐させ、如何なるかたちであろうとその時が来れば「はい、それでは参りましょうか」と受け入れることができる。そのような心境であれば最早、死が問題ではなくなるはずです。

メディアは殊更に騒ぎ立てますが、決してコロナウイルスによる死だけが身近な死ではありません。死にたくないからワクチン接種に行ったのに、その帰り道、交通事故に遭って命を失う可能性だってあるのです。私たちは常に死の影にびったりと張り付かれながら生きています。そして、その影にいつかは必ず飲み込まれてしまう。これは避けられない事実です。まずはその自覚を持つことです。誰も死に打ち勝つことはできません。だとしたら、その死の影からできる限り逃れようとして生きるのではなく、日頃から親しんでおくことが大切ではないでしょうか。とはいえ、本当の意味で「死」を自分事として実感するということは難しいかもしれません。我々凡夫には不可能かもしれません。しかし「無常」を常に胸に抱いて生きれば、何が起きても「まさか私が?」「なぜ私だけにこんな不幸が?」という思考には至らないでしょう。どのような困難が降りかかろうとも、突然目の前に死を突き付けられようとも、人はそれをそのまま受け止められる心を持ち得るのです。しかもこれは限られた人だけができるのではなく、誰にでもできるのです。

仏教、特に浄土真宗の教えを正しくいただいた人々は、事実、死への恐怖心というものが喪失している場合が多く確認されています。鈴木大拙氏や柳宗悦氏によって世に広く紹介された「妙好人」と呼ばれる人々がそうです。興味がある方は調べてみてください。また、私自身も今死にたいとは全く思いませんが、いつ死んでももう大丈夫という心持ちで日々を送らせていただいております。なぜなら、私がこの人生において必ず成し遂げなければならない最も大切なことは、もう成し遂げたからです。浄土真宗ではそれを「後生の一大事」の解決と呼びます。もちろん成し遂げたらそれで終わりというような話ではありません。私は「その時」が来るまで、この人生を踏みしめ、歩ませていただくのです。死への恐怖を克服することが仏教の目的ではありませんが、正しい教えをいただくことで、副産物として「いつ死んでも大丈夫」というような心持ちを同時にいただくことができるのです。

コロナパンデミックという出来事は、ある意味、私たちにとって「死」というものが決していつか訪れる遠いものではなく、常に命の至近に存在するものであるという「正しい認識」を、改めて多くの人々に知らせる機会でもあると思います。今こそ本当の意味で「命」について、一人ひとりがしっかり考えてみることが大切なのではないでしょうか。ワクチン接種ひとつをとってみても考えることはできます。どうすれば私が、私の家族が助かるのか、最悪の事態を回避してより長く生きられるか、という主観的な視点ではなく、今生かされているこの命を通して、私は誰に何を問われているのか、そのことを冷静に見つめ、考えてみることが肝要であり、それこそが人間として生を受けた意義なのではないでしょうか。仏教は、私に様々な示唆を与えてくれると同時に、私は仏教にこそその答えがあると確信しております。

*浄土真宗に興味を持たれて、インターネットで検索したり情報収集したりする方は、くれぐれもご注意ください。浄土真宗と名乗ってはいても、実際にその教義は浄土真宗とは全く異なる団体や組織も存在します。

最後に、正しい浄土真宗の教えについて詳しく知りたいという方がおられれば、以下のサイトを推薦いたします。浄土真宗の教えが我々現代人にも理解できるように、非常にわかりやすく説明されたサイトです。


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