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私の求道体験記 ③二人の善智識 後篇「久保光雲」さん

 皆さんは物心ついたくらいの頃、何だかわからないけれど、とてつもなく恐ろしいことってありませんでしたか?例えば幽霊とかピエロとか、何でもいいです。思い出せますか?「死ぬ」ということもそうですね。死んだら無になる、自分という存在がなくなるということが怖いと感じられた方も多いはずです。私が子供の頃一番怖かったことは「永遠に終わらない」ということです。夜寝る前に布団に入ると、いつもこの恐怖が襲ってきました。自分が死んでもまた別の何かに生まれ変わって、死んで、また生まれ変わってを繰り返し、それは文字通り「永遠に続いていく」「終わりがない」ということです。そのことを考えるといつも眠れなくなり、それが何よりも恐ろしかったことを今でも鮮明に覚えております。

 私が久保光雲さんと初めて一対一でお話(浄土真宗ではこれをご示談と言います)をさせていただいた時、そのことを説明すると、「それは阿弥陀様のお働きがかかっておられたんですね。ありがたいことですね。」と言われたのを覚えております。その時は、はっきり言ってどういうことなのかさっぱり分かりませんでした。今から四か月くらい前のことです。

 久保光雲さんは非常にユニークな経歴をお持ちの方です。彼女は、画家であり、カウンセラーであり、母であり、現在はブラジルの浄土真宗本願寺派のお寺で僧侶をされております。私が初めて彼女の存在を知ったきっかけは他でもないこの「note」です。彼女の紹介をさせていただく前に、少しだけ浄土真宗の教えとはどのようなものかについて簡単に説明したいと思います。

 仏法を聞いていくということは、具体的に「因果の道理」「罪悪」「無常」を見つめていくことだということは、前回もお話させていただきました。この三点はあらゆる仏教の宗派に共通して説かれているいわば「仏教の根幹」のようなものです。しかし、浄土真宗にはその他の宗派と大きく異なった際立った特徴があります。それは、「自力と他力」ということです。先に結論から申しますと、浄土真宗=他力の教え、その他の宗派=自力の教え、ということです。

 自力とは文字通り、「自分で修行することによって悟りを開く」ということです。つまり、自分で自分の煩悩を打ち消す、そういうところまで自分の力で到達して仏の智慧を得るということですね。これは難しいことですね。私には絶対に無理です。禅宗のお寺などでは多くの僧侶の方々が日夜厳しい修行に励まれておられます。尊いことです。有名な「般若心経」に書かれていることも、簡単に言うと、「真っ直ぐに仏法を求め、修行せよ、そうすれば煩悩を断ち切って仏に成れるぞ」ということですね。さあ、生身の人間にそれができるでしょうか?気まぐれに座禅をして、写経もして、「あー何だか気分がすっきりしたわー。」というくらいでは悟りを開けそうにありませんよね。

 では、そういう自分自身では悟ることのできない我々のような人間(凡夫と言います)はどうすれば良いのでしょうか?その道を説かれたのが、他力ということです。よく「他力本願」という言葉を耳にしますが、これは「自分の力ではなく、他人任せで何かを成し遂げようとすること」というネガティブな意味で使われている場合が多いようです。全く間違った解釈ですね。他力とは他者(自分以外の人間)という意味ではなく、阿弥陀仏という仏のことを指します。お釈迦様でもお地蔵様でも観音様でもありません。阿弥陀仏だけです。この阿弥陀仏が我々衆生(人間を含めた生きとし生けるものすべて)を救おうと建てられた願(正確には法蔵菩薩という修行の身であった時に)が「本願」ということであり、この阿弥陀仏(阿弥陀如来)の救いに偶うということが、浄土真宗で言う「ご信心を得る」ということなのです。

 いきなりこんな話をすると、非現実的なファンタジーのような話だと感じられるでしょう。「ああ、たまさんは何か怪しげな宗教にハマっちゃったんだな」と思われる方も多いと思います。それは仕方ありません。日本で一般的な宗教というものの認識は、仏教もキリスト教も新興宗教も全部まとめて「宗教=よくわからない世界」ですね。強い信仰心は時として、現実逃避の弱者の姿、どこか洗脳に近いような状態ととられる場合があることを、私も十分承知しております。悲しいことですが、長い歴史の積み重ねの結果、現在、仏教というものもそのようなものと同一視されているケースがほとんどではないかと感じます。

 しかし、生きることとはどういうことなのか?死とは何なのか?自分はどこから来てどこへ行くのか?そういう人生における真実というものが本当はどこかにあって、自分が今認識しているものごとや現実と呼ばれる世界こそ、実は迷いなのではないか、という疑問にぶち当たった時、その解決の糸口になるものはやはり仏教なのではないかと、私は思います。何度も申しますが、仏教とは仏様を信じ、救われる教えと言えなくもないですが、これでは少し不十分で誤解があるようです。「ならば神を信じ、信じる者は神に救われる」というのと何が違うんだ、ということになりますものね。仏教が何であるか、それを正確に伝えることは非常に難しいですが、仏教とは仏を信じるというよりは、仏(法)の真実を知り、同時に自己の真実をはっきりと認識するということ、結局は「自己の解決」ということではないかと思います。

 だいぶ話が逸れてしまいましたが、このように私はずっと「自己の解決」ひとつを求めて仏法を聞いてきました。上で述べたように浄土真宗では「ご信心を得る」という体験が自分の身に起こってきます。私はこれこそが自分の求めていた答えだ、といつからか思うようになりました。このことを浄土真宗では「信心を獲得する」という意味で「獲信(ぎゃくしん)」と言います。しかし、現在日本で最も数の多い浄土真宗のお寺でも、この「獲信」について詳しく話を聞けるようなところは、ほとんどないのではないかと思います。

 私は仏法を聞いていく過程で、この「獲信する」ということこそが、自分の中で最大の目的となっていきました。しかし、どれだけ聞いても獲信できるどころか、信心とは結局何なのか、それさえ一向にわかりませんでした。むしろ、求めれば求めるほどどんどんわからなくなっていったのです。

 どこかに獲信する方法が書かれていないかと私はインターネットや本、さまざまなソースで情報を集めてみました。しかし有力な情報は得られず、半ば途方に暮れていました。そんな時、ふとnoteでハッシュタグ「獲信」と入力したら、久保光雲さんのページがヒットしたのです。ちなみに久保光雲さんのご主人様である久保龍雲さんも同じくブラジルで僧侶をされており、「死ぬのが怖い人へ」というタイトルでnoteにご自身の求道体験について詳しく書かれております。

 私はすがるような思いで、彼女にすぐにメールを送り、今までの私と仏教との関わりについて細かく説明し、獲信したくてもどうしても獲信できない思いを正直に伝えました。すぐに返事が返ってきて、彼女が開催しているZoom座談会の存在を知りました。私はその座談会に出席し、改めて仏法を聞かせてもらいました。そして、獲信するための具体的方法論、つまりどのように自己を見つめていけば良いのかということを、細かく教えていただきました。本当に彼女との出会いは私の人生において非常に大きなものであり、私を真実に導いてくれた善智識だと思っております。

 現在、多くの方が私と同じような悩みや疑問を抱えて生きておられると思います。人生で成し遂げるべきことは、幸せな人生を歩み、幸せに死んでいく、ただそれだけなのかも知れません。しかし、その一人ひとりの人生の主体である「自己」とは一体なにものであるか、それが解決しないことには、死ぬ前に絶対に後悔するだろうと私は思いました。2014年に他界した私の父が、晩年に書き残した日記のようなものを、父の死後読みました。そこには、「自分の死を間近にした今、後悔しても遅いが、小難しい考えなど捨てて、素直に仏教を信仰していれば良かった。」と書かれていました。その時はそれがどういうことなのか分かりませんでしたが、今ははっきりとわかります。これは、父が身を持って私に残してくれた私にとっての仏教とのご縁だったのだと、深く味わいながら、父に感謝しております。

 久保光雲さんは、私のように人生に悩み、自己に悩み、どうすればわからない人を正しい方向へと導いてくれる、現代では数少ない善智識であることは間違いありません。そして、私が彼女を尊敬する大きな理由は、そのエネルギッシュさと発信力です。彼女は以前からたくさんの法話をYouTubeにアップされています。いくつか観てみられることをお勧めします。そして今、コロナの状況が世界中に拡大してからは、特にZoomやLineなどの現代のツールを駆使して、一人でも多くの方に仏法を届けたい、正しい教えに出会い救われてほしいという一心で、精力的に活動されておられます。

 もし私の話に共感された方、ご自身の「自己の問題」を誤魔化さずに、しっかりと解決されたいと思っておられる方は、まずは、彼女のウェブサイトやnote、YouTubeをご覧になることをお勧めいたします。下にそれぞれのリンクを張っておきます。もっと踏み込んで仏法を求めたいと思われる方がおられましたら、彼女が開催しているZoom座談会に一度出席されることをお勧めいたします。私も毎回参加しておりますので。皆様とこのnoteを通してそのような仏縁を持てたなら、私も本当に嬉しく思います。

 それでは皆様、今日も良い一日をお過ごしください。ここまで読んでいただき、ありがとうございます。



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