【小説】 おしっこを我慢し続けた結果、ゾーンに入った話


迫りくる尿意

おしっこがしたい。

都心へ向かう地下鉄の中、私はドア付近にもたれ掛かりながら目的の駅への到着を待ち続けていた。

普段ならば迫りくる労働への憂鬱を募らせるばかりの車内で、駅への到着を切望したのは初めてかもしれない。

一時は途中下車することも考えた。しかし、あと数駅という距離感と、お手洗いの位置を把握できているという点に於いていつもの駅の方が適切だと判断し耐えることにした。

普段なら気にならない僅かな揺れが膀胱を刺激する。可能な限り揺らさず、それでいながら一刻も早く着いてくれ。そんな余りにも横暴な願いを胸に、じっと耐え続けていた。あと2駅がバカに遠い。

排尿に染まる思考

迫りくる尿意にじっと耐え続けながら、いかに漏らさずに用を足すのかという事を考え続けた。

他の事を考える余裕がなく、おしっこに思考を占有されてしまっていた。

目的の駅に着いた際のルートを思い浮かべ、シミュレーションを幾度となく繰り返した。回を重ねるごとに脳内のビジョンが鮮明になっていく。

「私は出来る、誰よりも無駄のない動きでお手洗いにたどり着ける」と自分に言い聞かせ続けた。試合前のアスリートの如く、来たるべき時に備えていたのだ。

雑念が消えていき、脳内には真っ白な小便器だけが眩い光を放つようになっていた。
永遠にも感じられる数分を経て、地下鉄が私の目的の駅に到着した。

決戦の時

人の波に飲まれながら下車した。この波の中、一刻も早くお手洗いにたどり着かなければならない。

そんな時、「おかし」というフレーズが思い出された。
食べ物の方ではなく、避難訓練でよく言われる標語の方だ。
(地域や年代によって「おはし」だったり「おかしも」だったり「おはしもて」だったりするかもしれない)

おさない、かけない、しゃべらない
これは今のシチュエーションにも通ずるものだ。

私は駆け出したい気持ちを抑え、我先にと歩を進めたい気持ちを抑え、とにかく人にぶつからずにお手洗いにたどり着くことだけを最優先に行動した。

変化を感じたのはその時だった。

周囲を俯瞰しているような感覚を得るとともに、自分が進むべきルートがうっすらと浮かび上がってきたのだ。

私は光の導線に乗り、人々の波をすり抜けていった。
こころなしか身体も軽い。自分の身体をどう動かすべきかを本能的に理解しているようだった。

普段の自分では信じられないスピードと無駄のない動きでお手洗いにたどり着き、用を足す事ができた。

今回の体験を経て

さっきのはもしかして、いわゆる“ゾーン”というやつなのだろうか?

そう思ったのは用を足した後だった。気付いた時にはもう先程の研ぎ澄まされた感覚は綺麗サッパリ消え去っていた。

それからは何度か似たようなシチュエーションを経験しても、ゾーンに入る事はなかった。
同じようであっても何かしらの条件が違っているのかもしれない。

あの時の経験は幻だったのだろうか?
自分の感覚すら疑わしくなってくるが、あの時は確かにゾーンに入っていたと思う。

私はいつかまたゾーンに入ってみたいと思いながら、同名のエナジードリンクを口にした。








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