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【短歌】第2回2023年紅白歌合作品講評【Xタイムライン企画】

感想は私の主観であり、作品の解釈を決定するものではありません。あしからず。 


■君について 喜ぶより恨んでいるのに 切れないよこの愛しいも


 「〜について」という表現によって、主体は相手のことを感情的な私怨ではなく、あくまで理性的な念を持って捉えていると考えることができる。

 「愛しさ」ではなく「愛しい」と表現しているところでは、名詞ではなく動詞であることで、「愛しさ」と「愛する」という、言葉の境界を表すようなほどよい匙加減を感じる。

 テーマとしては普遍的な愛に関するものでも、言葉の選択や使い手の母国語(プロフィールより、詠者は日本語を勉強する台湾人の方だそう)が違うだけで、また違ったニュアンスや力感が込められるのが、日本語と短歌の面白いところだと思う。

■乳飲児の 声が響いた 午前二時 窓に目をやりゃ 猫が争う


 “乳飲児”と“猫の争い”という取り合わせ。

 夜泣きする子どもと、喧嘩する猫の鳴き声とが合わさって、深夜二時だというのにやかましい。

 とはいえ、これらはバイクのエンジン音や隣人の生活音などとはまた違うタイプの騒音である。

 この短歌の面白さはここだろう。

 不快ではなく、不安でもなく、生き物が本能のままにあげる声に囲まれる。

 何とも言えないからこそ、こうして短歌として感慨が表れている。これこそ詩情というものではなかろうか。

■地球でも海を見ながら生きたから月の海辺に僕は立ちたい


 海を見ながら生きるとは、そこにある水平線を望むことであり、寄せる波に身を委ねることであり、海鳥の飛行に憧れることを想像する。

 「生きた」とは過去形だ。年齢は推し測れないが、主体は生ききったのだ。疲れ果てるまで何かを見果てながら生きたのだ。

 月の海に水はない。海と同じ形の窪みがあるだけである。だから今度、この主体は海を見果てるだけではない。きっと今度は海を歩ける。

■青春の消費期限はあと三日 授業サボって海へ行こうよ


 今回の投稿に使った写真と合わせたことで、さらに威力を発揮した作品。

 短歌のみなら青春のキャッチコピーのようであり、写真のみなら映画のワンシーンのようであり、短歌と写真が合わさることで新たな何かとして完成している。

 去年の歌合でも思ったが、一首は必ずこのように歌+別要素でシナジーを得るものがある。これもまた短歌の面白いところで、写実主義の傾向が強い俳句とは違い、感情や抽象的な表現が許容される短歌だからこそ生まれる感動の形だと思う。

■Красный 美しくない赤色もあるのに手のひらを太陽に


 この歌は具体的に解釈するより、個人的には純粋な歌として読んだほうが美しい。

 詠嘆するようなКрасный(赤色)から始まり、「〜に」で終わる句が二つ続く。

 冒頭のロシア語含め、発声して楽しく、手のひらを太陽に透かす主体の詩情を読み取ることもできる。

 外国語がカタカナにもされず、これほど違和感なく用いられている例は知らない。その技量も含めて尊敬に値する。

■厳格な祖父をミッキーへと変えるチップとデールめいた孫たち


 「笑顔に変える」や「ピエロに変える」の新しい形としてのミッキーでありチップとデール。

 ミッキーがかなり昔からのキャラクターであることもあって、この祖父が「子どもから見て楽しい存在」としてミッキーを認識していてもおかしくはない。

 キャラクターの固有名詞を用いた作品もあまり見ないが、違和感なく明るい仕上がりになっているのは詠者の技術の成せる業だろう。

■丁寧に折り畳まれた傘を見てもう一人ではないことを知る


 主体は折りたたみ傘を雑に畳む人。自らの雑さが放置され続けている事実が、自分が独りであることを実感させていたのだろう。

 一人暮らしだとよくあることである。床のゴミは自分で捨てなければ一生そこにある。雨中を一人で帰って、傘を玄関に打ち捨てる。翌日の朝も同じ形でそこにあれば、その寂しさたるや想像に難くない。

 傘が畳まれていること、そういう小さな事実で自分が孤独でないことを忘れられる人は、きっと優しい人だと思う。

■頑張って誰も殺さず生きている俺たちにノーベル平和賞


 誰かに計り知れない怒りや殺意を抱いてしまった時に、それを抑えられる人間と、抑えられない人間がいる。

 だから、その理性的な振る舞いは当たり前のように見えて、実は個々人の努力の表れなのだと褒めてくれる一首。

 「生きているだけで偉い」という表現がある。誰も殴らず、怒らず、抑えて耐えて生きている人間は多い。社会人なら当たり前とされることも、たまにはこんな歌で評価されてもいいのではないだろうか。救いになるような歌だった。

■きょう初めて肌のちかくに触れましたきみのぽっけはあたたかいのね


 相手のポケットに自分の手を入れて横並びで歩いたりするのは、カップルなら一度は経験したい冬の幸せではないだろうか。

 上の句で敬語調、下の句で語尾がほぐれているところに、そんな所に触れた経験に慣れていないことによる暖かい動揺や、無邪気な喜びが見て取れる。

 読みこめば読みこむほど光景から幸せを受け取ることのできる、冬にこそ読みたい歌。

■雪だるまの胸に林檎を埋めるのはとてもいけないあそびとされる


 元のモチーフが無いとすると凄まじいセンスだと思う。寓話的であり、それでいて嘘臭さも感じない。年末の季節性も盛り込まれているし、雪だるまと林檎という取り合わせも短歌に味を含ませている。

 どのようにこの歌を思いついたのか、このバランス感覚の源泉はどこなのかを知りたい。圧巻。

■恋なんて星の数ほどあるはずで、シリウス馬鹿みたいに光って


 ストレートな叙情が爽快な一首。

 シリウスとは地球から見える星のなかで、太陽以外で一番明るい星。この星の明るさに嫌気が差すような日は、きっと月も出ていないのだと思う。

 失恋の歌だとしても、若き恋の心からの慟哭が聴こえてくるような歌だった。

■吹き出しがあるとするなら「この世界そのものが嘘」寝返りを打つ


 自分が横になっている光景を漫画の一コマのように捉えた、シュールな哀愁を含んだ一首。

 寝ぼけた頭に「起きろ」と呼びかけてくる世界への軽い憎悪がポップに表現されている。

 そのポップは“吹き出し”を用いた表現や、短歌の調子にピッタリハマった音がもたらすものであるとも思う。俳句や小説では到底できない、短歌ならではの作品だと思う。

■冬はそう「優しくない」の一言で今日も落ち葉が頭上にふわり


 冬の寂寞とした光景がありありと伝わる歌。

 “今日も”落ち葉が落ちてくるというところで、詠者は日々落ち葉を注意深く見ているのだと分かる。

 季節の波は青々とした季節をさらい、乾かし、落としていく。冬の無情な季節感を独自の感性で読み直した作品だと思う。

■針穴に似たさびしさを抱えつつときどき駅に買うメロンパン


 “針穴”と“さびしさ”と“メロンパン”という3種の取り合わせがなんとも調和している。

 針穴にさびしさを想起するその発想がそもそも新しく、そのうえさらにメロンパンを持ってくるバランス感覚。駅“に”という助詞の選択にも主体を若くさせ過ぎない工夫がある。

 全体を通して詠者の個性が滲んでいて楽しい。

■溶け残る砂糖のような雪ここはコーヒーカップの底にある町


 雪を何かに喩えるだけなら平凡かもしれないが、雪の積もる町を、1つ目の比喩に用いた道具でさらに喩えてみせるという二段重ねの比喩。とても自分にはできない芸当に感動した。

 こういう「良い意味で頭の良い歌」を詠めるようになるには、単に数を作るだけではいけない気がする。是非教えを乞いたいところである。

■姉と呼ばれ姉となりゆく魔女と呼ばれ魔女となりゆくわたしは棺


 この歌にはあえて具体的な情景などの解釈はせずに進む。

 姉→魔女→棺と、「私が何であるか」が変わっていく。主体が成長したのか、主体の環境が変わっていく様子を表現しているのか、棺とは「死」や「寝床」というイメージがつきまとうが、魔女という言葉と関係があるのだろうか。

 考えれば考えるほど新しい解釈が見えてくる、抽象現代アートのような不思議な魅力の作品。 

■しんしんと降りつむ夜に撫でているしなやかに勁き天使の脊骨


 天使とは赤子のことだろうか。

 着目するのが背骨であることが生々しく、それを背骨→脊骨と表記することでさらに「目の前の天使もまた同じ人間である」という事実を強調している。

 天使にもまた骨肉があり血が流れるという事実を、短い文芸の中でありありと示してくる作品。

 そして、中村草田男の俳句に「万緑の中や吾子の歯生え初むる」とあるが、子どもの身体性に着目した作品には特有の面白味がある。もはや一個のジャンルとして確立してもよいのではとさえ思う。

■思い出したように降って積もった雪で覆って今年を納める


 今年の暖冬は、特にこの様相が強かったと思う。というように、短歌一つで世相が分かり、今年を仕舞うような年末の感も伝わってくる。

 じきに大晦日という事実に実感が持てないでいたが、この歌を読んでようやくその感慨が湧いてきた。

 こういう「実感を与える歌」というのは、狙って詠もうと思っても詠めない難しいものに、少なくとも私は思う。

■明方に腹が減ったと人に乗り猫の時計はいつも正確


 この主体は目覚まし時計ではなく猫で起きているのだろう。仲の睦まじさが微笑ましい歌である。

 “腹が減った”という擬人化や、“いつも”という日常性。主体の猫への愛着や、一緒に暮らす時間の長さも伝わってきて、読者である私はそんな朝に羨望すら抱く。

■えびまぐろ サーモンいくら たいはまち よなかのさんじ おなかすいたし


 ORANGE RANGEの本歌取り。

 短歌の本歌取りという文化は現代で用いるには非常に面倒だが、この歌は歌詞を直接引用しているわけでもなく、作品自体もポップアートのような軽快さで成立しているので面白い。

 短歌は「歌」であるから、このように声に出して楽しいものは立派に短歌として愛されてよいものだと思う。少なくとも私は好きである。

■コメントを読んでほしくてスパチャ投げ 承認欲は留まり知らず


 短歌という伝統文化の中に「スパチャ」という単語や社会的な面を盛り込むチャレンジングな一首。

 少ない字数では「欲」や「依存」というテーマの核心を突けなくても、事柄に切り込みを入れて一側面を知らしめることはできる。つまり、この短歌はナタではなく、対象を薄く切り下ろして読者に与える刺身包丁のような作りをしているのだ。

 歌で社会を表現すると言うとロックやパンクの文脈に繋がりそうなので、この手の作品はロック短歌と呼んで差し支えないと思う。 

■縁結び神社で十字切る君と二礼ニ拍手一礼の僕


 宗教が違うだけで生まれる“君”との距離感に、日常感じない不安や寂しさを覚える。

 十字を切り終えるまでにかかる時間と、二礼二拍手一礼にかかる時間は異なる。

 二人がすれ違っているのか、通じ合っているのか、近づいている最中なのかは分からない。ただ、二人の願っていることは同じであれば良いなと思う。

■日めくりをめくり忘れて3日分右手の力で老いを進める


 海外大手メディアの記事で「コロナ禍によって時間の認識が乱れたことで、年齢を自覚できていない人々」というのが取り上げられていた。「時間が経っていないと思っている間、人の精神は老いない」という問題をここでも見かけるとはタイムリーな話である。

 歌の話へ。

 “めくり忘れた日めくり”のように、置き去りになった習慣を取り戻すには体力が要る。だから利き手の右手で、溜まっていた老いを自ら進めるようなドロついた精神の負荷がかかる。

 通常「面倒」で片付く表現を、「老いを進める」としているだけで、ここまで歌の世界や解釈が広がることに感動した一首。

■足首にタトゥーを入れたねえさんを従えている黒い豆柴


 タトゥーのねえさんと黒い豆柴という、このアンバランスな組み合わせが良い。

 ただの豆柴ではなく黒だというのが、“ねえさん”の人間性をも代わりに表現しているように思える。足首に視線がいくということは、黒柴は背が低く、足首と同じ視界に収まるほどなのだろう。

 この“ねえさん”を見た後のストーリーが気になって仕方がない、まるで小説の書き出しを読んだ気分だった。


■もしもし?ん? 聞こえない上に届かない ハモりの仕業 ふた笑みこぼるる


 通話の最中に起きるハプニングを微笑ましく切り取った一首。記号を用いていることで、通話する二人の関係性に柔らかさが生まれている。

 しかし、“聞こえない上に届かない”と真ん中で展開が起きることで、下の句の笑みにさらなる安心感が生まれている。

 一首の中で物語を展開させて収束まで持っていくところに、詠者の一連の喜びを追体験するような感動が生まれている。


■晦の回廊につく足跡の爪先は濃く残りたりけり


 晦とは月末のこと。

 師匠の僧が忙しなく走り回る師走の月の晦には、寺の廊下はつやめくほど綺麗に大掃除が施されている。だが大急ぎの師匠は掃除した上から駆けていき、脂っぽい足跡を残していく。爪先で強く床を蹴ったのか、その足跡の爪先部分のほうがより濃く残っている。


お疲れ様でした。また来年。

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