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逆に、読書すべきでない人々は存在するのか?を考えてみた。

「読書すべきでない人」は存在するのか?

 古今東西、読書の素晴らしさが語られて久しいが、日本人の読書率はそれほど高くない。それに対し、知識人各位は読書がいかに素晴らしいかを説き続けているが、暖簾に腕押しといった具合だ。
 ここで、基本的な問いに立ち返る。
 「人は皆読書すべき」ということは、「読書すべきでない人はいない」ということを意味する。
 本当にそうだろうか?
「読書が全人類にとって素晴らしいことはなく、誰かにとって読書は不必要なものである」という論理は、果たして成り立つのだろうか?
 これが成立すれば、読書=誰彼かまわず奨められるべきものという認識は正されることになり、自称知識人がところ構わず読書礼賛をすることもなくなるに違いない。

そもそも「読まれるべきでない本」は存在する

 自称インテリが書いた浅い学識の本や、無知な読者を口八丁で手籠めにしようとする輩の愚書は、読書の範疇には入らない。
 これはオカルト雑誌や新興宗教の経典、道で配られるチラシの類である。
 次に、これはあくまで私の場合だが、スピリチュアルや根拠のないダイエット本、健康本なども読書に含めていない。
 そうした情報は本でなくても得られる。トレーニングであれば、本業のトレーナーがいくらでも映像をあげている。身体操作に関することは映像のほうが分かりやすい。スピリチュアルは単純に性に合わない。
 刊行時期の問題もある。
 当時は最先端の論理や科学を謳ったものであっても、それが十年以上前のものなら既に知は刷新されている可能性が高い。
「よし、最先端の知に触れるぞ」と勇んで古典を読むやつはいないと思うが、何十年も前のものでも、これと同じ姿勢で挑んでいたら同じである。

ここまでの要約と、ここからが本題

 本によって、読み方次第で読書とは呼べなくなるものは存在するし、人によって読むべきでない本も存在するというわけだ。
 そのへんの取捨選択が必要という事実は、「全ての人が読書をすべき」なのではなく、「全ての人が、それぞれに合った本を読むべき」ということになる。
「自分に合った本なぞあるかい」という方、安心してほしい。グーグルブックスによると、世界には本が1億2986万4880冊あるらしいから、頑張ってその中から好きな本を見つけよう。
 あなたに合った本とは、あなたが時間を押して読みたくなるような、あなたにとっての良書のこと。これが、私は必ず一人一冊以上存在すると考えている。
 だから、本が嫌いで本と仲良くなることなんて無理!という方は、例えば70億人いる人類全員と仲良くなれないと思っている、超極端な食わず嫌いだ。日本人は合わなくても、インド人は合うかもしれないし、ニューヨークのイカれたヒップホッパーたちが合うかもしれない。
 とはいえ、対人恐怖症が存在するように活字恐怖症の方もいる。そういう方は、読書の前に病院に行ってほしい。

自分に合った本に出会ってそれからどうすんだ

 じゃあ、合った本が見つかったらなんなの?という話。人間なら友達なり恋人になればいいけど、本なんてどうすりゃいいのさ。
 簡単な話。
 合う本は必然的に続きを読みたくなったり、著者の他の著書を読みたくなったり、感想を誰かに言いたくなったりする。だから、それをすればよい。
 そこから新たに次の読書体験が生まれ、コミュニケーションが生まれていく。それまで時間つぶしに見ていたティックトックがギャングのルポを貪り読む時間に変わってもいいし、それまで人の陰口で満たされていた会話が、杉原千畝がユダヤ人を逃がした逸話に「千畝凄くない!?」と歓喜しあうものになってもよい。
 そういうポジティブなリアルが生まれるキッカケに、読書は十分なりうる。
 エセ知識人は、やれ教養がどうとか人間性が磨かれてどうとか、東大生の実家には蔵書がどうとか言うが、んなことはクソどうでもいい。そんな奴らの本は引き裂いて尻拭きと鼻紙にしてしまえ。

「体験は個性だ」の話

 赤ちゃんはなんのアニメも映画も観たことないし、本も漫画も読んでないから、どの赤ちゃんをとっても同じ。だからたまに取り違えなんて事すら起きるし、そもそも最初は名前すらついてない。
 じゃあ、その子たちが分岐していく要因は何?
 遺伝子や環境は一つだが、体験もその一角を担う。そして、体験は掛け合わせだ。
 数学を学んだだけでは、同じく数学を学んだだけの人間と同じだが、数学と物理学について学んだ人間と、数学と天文学を学んだ人間では、違う成果物(論文や仕事など)をアウトプットする。
 あくまで今のは学術的な例だが、他にも、ダイエット理論×栄養学の組み合わせで学んだ者と、ダイエット理論×医学を学んだ者では、ダイエットや筋力トレーニングに対するアプローチも変わってくるだろう。前者は主に食から入るだろうし、後者は効率的な筋力トレーニングを考案するところから始めるかもしれない。
 こうした人の差、すなわち個性を生むのは、各々の体験だ。学問、芸術鑑賞、読書、コミュニケーションなど、無数の体験の組み合わせが個性を生む。
 そもそも生身の人間に差は無い。そこにあらゆる体験で武装して違いを生む。その違いが高じれば金になることもある。

体験は昨日と今日を隔てるもの

 空に関する本を読んだとして。
 明日から見上げる空の月や、一番星の金星や、雲の名前や、その色。何か一つでも、必ず昨日より変わって見えることだろう。あれだけ大きなものの情報がアップデートされるなんて、スマホの中で起きているソシャゲの更新とはスケールが違う。
 植物に関する本を読んだとして。
 路傍に見つけたその草は、昨日まではただの雑草でも、今日から夕食の一角を飾る珍味になるかもしれない。そうでなくとも、散歩道に何かを考えるキッカケになる。
 読書は、昨日と今日を隔てるもの。
 貴方と誰かを隔てるもの。
 個性を持った人は、いずれ誰かにとっての教師になるだろう。いずれ誰かの憧れの的になるだろう。

 そして最後に、いくらか本を読んだ私の文が、誰かにとってのキッカケになることを願って。


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